25.9.1

戦後ソ連に抑留された将兵は六十万人に及んでいる。自分がそのような経歴のあることを言いたがらない人も少くなかった。あの酷寒の土地でのみじめな、最低の生活を思い出したくない、という心情もあった。

それだけではない。われわれは戦争が終ってから不法に侵入して来たソ連軍に抑留されたのであって、いわゆる捕虜ではない、と主張し続けているが、ソ連は戦争は昭和二十年八月十五日に終ってはいない、九月三日まで継続していたので、お前たちは正に戦時俘虜だ、といって譲らない。

この論争は、八月十五日以後、進入して来たソ連軍の幹部とわれわれとの間でも幾度となく繰り返されたが、身柄は鉄条網の中におかれているので、いくら論争しても意味がないようになって、そのうち言わなくなって来た。

生きて虜囚の羞しめを受けず、という戦陣訓が頭に染みついていたし、捕虜と言われることを潔し、としない空気であった。実際ソ連に抑留され、二年、三年経って帰国したわれわれは、いろいろな面で不利益を蒙った。

その二、三年の間に帰るべき職場を失った人もいるし、一旗揚げられたのにそれも出来なかった人もいるし、また、ソ連で赤の教育を受けてきただろう、というので、なかなか就職できない人もいた。

又、二、三年も消息がないので、主人はもう亡くなったと思って他の人と結婚した女性の夫がひょっこりソ連から帰還して来た。という悲劇も現実のものとして耳にしている。

二重結婚でないにしても、どうにもならない関係の人ができて了っていた例も聞いている。

とにかく、違った目でみられる苦しみを味わわなければならなかった例は少なくない。

というようなこともあったし、とにかく生きて帰れたのだから、今更いろいろなことを言うまい、と思っていた人は多かったので、抑留間の補償を要求する運動などはなかったか、始まらなかったのである。過去のことに対してそのような行動を起こすよりも、目の前の生活に追われて、とにかく生きて行くことに精一杯であった、と言えよう。

全抑協の団体としての運動のスタートが戦後三十年も経ってからとなったのは、そのような理由もあった、と思っている。

われわれの団体の活発な運動に対応して戦後強制抑留者の処遇改善に関する議員連盟が自民党内に設立され、二百名を越える会員を集めて政府に対して働きかけを行ってきたのは、無論、多くの会員の団結が各議員の集票活動に結びついていたからに違いない。

然し、今にして思うが、当時、社会党などと結びついていた斉藤六郎を会長とする団体があったので、われわれは自民党だけを仲間として活動して来たが、その時に、団体を一本化する努力をもっとすべきではなかったか、と反省している。

私は、団体の一本化がこの運動を進める上で大事だと思い、斉藤を呼んで一本化を相談し、一本化するためには、私も団体の長をおり、君も辞めて、第三者を長とすることが肝心だと強く主張したのであるが、職業運動家と化して、それで飯を食っているような彼は拒否して来たので、実現しなかったのである。

ソ連抑留者からいろいろな名目で金を集め、政府を相手の見通しのない訴訟で最高裁まで争い、集めた金で山形に記念館を作り、金を欲しがるソ連の下級役人から小出しに資料を集める、というような人間がこの運動に係わっていたかと思うと、大へん残念な気がするし、思い切って、切って捨てるような運動をすべきではなかったか、と思っている。