25.6.22

学徒出陣で陸軍に入隊し、主計将校となり、北支、中支と転戦し、北朝鮮で終戦を迎え、ソ連に三年近く抑留された身にとって、それが、青春の真っただ中の時期であったし、一体、戦争はどういう意味を持っていたか、考えざるをえない。

この戦争はただ一方的に日本の侵略主義からしかけたものとは考えていない。そういう要素があったことは否定しないが、同時に日本がABCDの包囲網で絡められそうになり、それを切り開く活路を求めて南方に進出したという当時の日本をとり捲く環境からして止むを得ざるところがあった、と思う。

民族の違いは恐ろしいものである。日露戦争において、日本が当時強国と思われたロシアに勝ったことは、ある意味で白人社会にはショックを与えたのではないか。この人種間の相克の感情は、流れとしてはなくならない。

日露戦闘後の遼東半島の領有についての三国干渉などは、その一例であるが、有色人種の日本が強くなり過ぎては困る、という感情はなくなっていないと思う。

戦後、初めて欧米各国を二ヶ月に渡って出張旅行をしていた私は、いたるところで空気としてそういう感觸を持たされた。

私は、東南アジアの各国を解放するために日本が大東亜戦を戦った、などと大上段から物を言おうとしは思わないが、少なくとも、植民地となっていた国が民族の自決を求めて、独立運動を次々と起こして行く過程において、日本軍が南方各地において戦い、占領し、時に独立を支援する行動を興したことが、力となっていたことは否定をすべきことではないと思う。

かつて、マレーシアのマハティール首相が、子供の頃、あの絶対に負けることはないと思っていたイギリスをたった二週間で打ち掃った日本軍の力を見て、これならマレーシアも独立することができるかも知れない、と目覚めさせられた、と日経の「私の履歴書」で書いているのを読んだことがある。そうだったのだ、と思う。

日本はそういう問題について仰々しくいばる必要はないが、どこへ行っても悪いことをいたしました、というように謝って歩くことは必要はない、と思っている。謝罪外交は、この辺りで止めて貰いたい、と思う。

出る釘は打たれる、というのは、この世の常識である。何かと、言われることは覚悟しておかなければならない。