24.7.14

この間、若い女性と話をしていたら、年はいくつか、とか体重はいくらか、とか、いうようなことを聞いたら、セクハラになりますよ、と注意された。何か意図でもあってしつこく尋ねるのはいけないとは思うが、この程度のことが何故いけないか、と納得いかなかった。

戦後、大分前から従業員の採用を広告するに際して、性別、年齢などの条件を指定してはいけなくなったという。これも非現実的ではないか。例えば、クラブやバーなどで女性しか採用しないと決めているのに、どうしてそのことを広告に記していけないだろうか。男が志望する、面会する。初手から断わられる。全く無駄足を踏ませ、金や時間のムダになるではないか。介護士などにしたってそうだ。思い老人の身体を上げ、下げするような労働は被介護者と同年輩のような老人には全く向かない。採用広告から年齢制限などをして何がいけないのだろうか。表面的な公平さを示すことは、この忙しい世の中で勞力を浪費させることになるばかりではないか。

もうかなり前から就職運動の際の履歴書にも昔のように家族のことは記入しないようになっている。両親や兄弟が何をしていようと採用試験には関係がないということであろうが、実際は面接の時には多分尋ねることもあろう。私は、やはりそういう家庭の事情は雇用する側にとって気になるところであり、又、その辺の事情を採否の決定に当って考慮することは、いけないとか、おかしいとか言えることではないと思う。

どんな学校を出て、何を勉強してきたか、成績はどうか、も当然聞かれることだし、採否に当って考慮される要素である。

インターネットで本人が知らせたくない経歴まで、そして時には誤りも含めて公開されているような現状をどう判断したらいいのか。何かと言うと個人情報に拘わるという言葉が出て来て、不必要に警戒されるのに、他方ではこの有様である。

勿論、個人の身の上に関することを、本人の意思に関係なく公表することは謹む必要はあると思うが、一般的に知られて仕方がない、乃至は隠す必要のないデータまで公表できない、というのもどうかと思う。

近頃、学校などの同窓会の名簿などの取扱いが厳しくなっているのは止むをえないと思っているが、今までの様に、自分の住所録には載っていない旧友の所に所用で電話をしようと思っても載せていない人があって不便で仕方がないこともある。

この頃級友から来た年賀状にも、もう高齢になったので、今年をもって年賀状の送付を止めるので悪しからず、と付記してくる人が、何人もいる。仕方がないと思う傍ら、淋しいな、とも思う。と同時に私も、もうそろそろ考えなければいけないのかな、とも思ったりする。

も一つ、私は、初めて会った人につい生れは何処か、と尋ねることが癖みたいとなっている。不愉快そうな色が顔に走る人には勿論しつこく聞くようなことはしないが、大抵の人は答えてくれる。私は、この年になるまで仕事でかなり多くの場所に行っている。だから、生まれたり、育った場所を聞くと、何かの思い出が浮かんで来て、会話の糸口となることが多い。

国内は四十七都道府県凡て歩いたし、全部一度は泊った。三十年ほど前に佐賀県だけ出張したことはあるが、泊ったことはなかったが、当時衆議院議員だった労働省出身の大坪君の応援に渡辺秀央君と出かけに一泊し、これで全県宿泊が完成した、と思った。

ただ、未だ行ったことのない島関係があるので、一度行ってみたいと思っている。北方四島、利尻、礼文、奥尻など、三宅、小笠原諸島、壱岐、対馬など。しかし、いつ行けるかしらな。