太平洋戦争末期の空襲で障碍を負ったり肉親を奪われたりした空襲被害者が、初の全国組織「全国空襲被害者連絡協議会」を8月14日結成したという。法曹関係者や学識者からの協力を得て「空襲被害者援護法」(仮称)を作り、支持を表明している超党派の国会議員に議員提案を働きかけるという(8月15日・朝日・朝)。

 私は、太平洋戦争において、中国戦線で1年有余、終戦の時北朝鮮の軍司令部にいたため、65年前の8月15日の今日、北朝鮮で終戦を迎え、ソ連に抑留され、3年後の8月14日に舞鶴に上陸した。

 戦争中ではなく、戦後にいわれもなくポツダム宣言に違反して祖国に送還すべき将兵60万人を満州、北朝鮮、樺太、千島から酷寒のシベリアに送り、強制労働に服せしめたために1割近い6万人の将兵を死亡させるという苛酷な取扱いを受けたのである。

 昭和も50年代に入って、ソ連抑留者の全国組織「全国強制抑留者補償要求推進協議会中央連合会」を作り、ソ連邦に対して不法抑留に対する謝罪要求と抑留間の労働賃金の補償を要求して30有余年運動を続けて来た。私は、その全国団体の会長として努力を続けて来たが、昭和31年の日ソ共同宣言第六項で日ソ両国相互に請求権を放棄するという条項が強い障碍となり、対ソ連の交渉は進展しなかった。その間、国内的な措置として2回にわたり合計20万円の慰労金のほか銀杯、賞状を受領することになり、又、政権交替後成立した法律により、慰労金25万円~150万円を受領するようになった。これは抑留期間に応じて支給されることになっているが、殆どの抑留者は25万円にとどまっている。

 このいわゆる戦後処理問題については、ソ連抑留者のほか、いわゆる恩欠者(恩給受給年限に達しないが軍務に服していた者)、外地引揚者のいわゆる三団体に対して、政府は懇談会を設けて審議をした結果、ほかの戦争被害者に対するバランスもあり、被害者に対する補償はしないという意見を答申したのである。

 もちろん、われわれとしては大いに不満で、その後補償要求などの運動を繰り返し続けて来たのであるが、結局、ソ連抑留者に対しては前記のとおり慰労金ほか、恩欠者に対しては慰労金5万円、賞状、外地引揚者に対してはそれ以前に名目的に2回にわたって行われた補償金の支給のほか賞状という、甚だ不充分な措置で終わらざるをえなかったのである。

 広島、長崎の原爆被害者に対しては然るべき措置が行われている。関係者にしては、それでも不満は絶えないようであるが、それでは、戦争中に米軍の無差別爆撃によって死亡し、負傷した人々、破壊、焼失した莫大な財産、その他計り知れない国民の人的、物的の被害に対しては、国はどのような補償措置をしてくれたのか、何もしていないではないか、という怒りはもっとも言わざるをえない。広島や長崎にしても物的被害に対して一体何かなされたのであろうか。

 私は、幸いいろいろな目に遭いながらも生きて帰って来た。軍人恩給や遺族年金を貰えている人や家族もいる。しかし、暮夜ひそかに思うとき、本当に戦争被害に対して、これっきりの措置でよかったのだろうか。そんなことでは不平不満をなくすことができないのでではない、という思いが次から次へと湧いて来ざるをえない。

しかし、戦後65年も経って、今戦争被害者の問題をどう処理できるだろうか、と思うと、絶望的にならざるをえない。私自身もソ連で抑留されたほか、父が数十年間営々働いてやっと建てたが家も米軍の空襲で完全に消失した。家族の思い出の品も一切なくなった。

 これは、それこそ簡単に処理できる問題ではない。が、といって、その一つ一つについて、今後どのような対策が考えられるのだろうか。実現できるのであろうか。悲観的にならざるをえない。ただ、私どもに少なくともソ連、今のロシアに対する補償要求だけは死ぬまで続けて行きたいと思う。何故なら、戦争中の被害ではなく、戦後他国の責任においてとられた不法な措置に対するいわば賠償要求であるから。  


                                   22・8・15