【  行き過ぎた 憐れみ  】

ドイツ人医師「ケンペル」は、
著書「廻国奇観(1712)」に
五代将軍綱吉をこう評している。

「徳川綱吉は卓越した君主である。
全国民は完全に調和した生活を送り、
他のあらゆる国の人々を凌駕している」

近隣諸国との大きな違いのうちでも、

日本は犬を食べる習慣がありません。


犬食文化は「アジアや南太平洋の農耕社会」

では珍しいことではないにも関わらず、

日本人の感覚からすれば禁忌とされます。


現在でも中国では犬が食用とされて

レトルトや冷凍食品までありますし、

韓国では年間200万頭の犬が食用に

されているとおり北朝鮮においても

貴重なタンパク源となっています。



「欧米の牧畜社会」においては、

犬食を嫌悪してきた歴史があり、

イスラム圏やユダヤ教などでは

宗教上のタブーでもあります。


ヨーロッパ人がアジアに踏み込んだ時、

犬を食すアジア人を見て驚きました。

野蛮で未開な民族と感じたのでしょう。


しかし日本に踏み込んでみると

他のアジア諸国とは様子が違い、


明治時代の日本では犬食はほとんど

完全に消滅していたということで、

その点においては、日本が欧米人に

軽蔑されることはなかったそうです。

ただ、日本で犬食がなくなったのは

どうしてなのでしょうか?



日本にも「犬を食べていた時代」はあり、

江戸時代や戦国時代まで、犬は「食肉」

として普通に調理されていたそうです。


大きな転機となったのは、「犬公方」

徳川第5代将軍である綱吉の時代です。


江戸時代において天下の悪法と呼ばれた

「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」を

発布した独裁者とされますが、もともとは

生きとし生けるものすべてを大事にしましょう

といったちょっと極端な内容のものでした。



民衆、特に武士階級からは猛烈に批判され

ましたが、綱吉は断固曲げませんでした。


なぜなら、「生類憐みの令」の

真の目的は、慈愛の心ではなく

欲望による駆け引きであり、


実母の入れ知恵により、

お世継ぎを授かるための

権力的な策略だったからだと

言われています。


高名なお坊さんに相談して、

「戌年生まれだから犬を大切に」

と言われた事を曲解したともされ、


前世の因縁どうこうという話でも

脅かされていた様に言われています。


そもそも根本的な間違いはなんでしょう。


動物を守ること自体ではなくて、

命を奪うということが罪悪であると

人々に認識させるために、意識改革を

してしまったところがおかしな話です。


自分自身が生き物を大切にするのは、

功徳にもなるし、問題はありません。


それを他人に対して押し付けるのは、

戦国時代以上に混乱と迷妄を招きます。




命を大切にするのは良いこと。

命を奪い合うのは悪いこと。


クレタ人は嘘つきだと

クレタ人は言いました。


命を大切しないやつは

ぶっころがしてやるぞ!


出会い系バーに通ってたのは、

現地で調査するためなんです!




愛の心を知らないばかりか、

形式だけで善行を施すという、

まさに絵に描いたようなよくある

偽善者のサンプルだったわけですね。


戦国時代からそんなに時間が経っていない

ということもあり、生類憐みの令なんていう

超慈善な法律は浸透が困難なものでした。


革新的ではあっても、先駆的な考え方すぎて

江戸時代にはまだまだ早すぎたのでしょう。


嫌われ者すぎる将軍へ、水戸黄門さまこと

徳川光圀公は、犬の毛皮を献上しています。


時の権力者に、真っ向から批判したのです。


いくら徳川に連なる家の者とはいえど、

相手は将軍です。誰にでもできるような

簡単なことではありません。


綱吉が将軍になれたのも光圀の推挙があった

おかげという綱吉にとっては強く出れません。


後継ぎの居ない四代将軍家綱が没した際、

綱吉を推した人物こそが光圀公なのです。


綱吉は若くから学問に親しむ秀才でしたが、

将来将軍になるとは思われていませんでした。


次期将軍には家光に最も近い血縁である

綱吉がふさわしいと光圀は主張しました。


それをもって、認められたとされています。


光圀は幕府に対してでさえも

かなり自由に発言することが

許されていたのかもしれません。


犬の毛皮を送り付けたという行動は、

生類憐みの令に苦しめられた民衆には

とても痛快なものだったことでしょう。


犬将軍さえ極端な政策をしていなければ、

光圀公も犬の皮をプレゼントしなくても

済んだわけですからね。


ちなみに、徳川光圀さんの処で

大切に飼っていた鶴が、ある時、

近所の農民によって殺されました。


黄門さまはどうしたでしょうか。


生類憐みの令の発布されていた時代、

処罰する事はやめられたそうです。


理由としては、


「その者を殺したからといって

死んだ鶴は生き返らないから」


ということだそうです。


戦国時代の弱肉強食は過ぎ去っても、

クリエイティブ時代を作り上げて

共存共栄を目指さなければ、

本当の意味での天下泰平などは

勝ち取ることは難しいのです。


ちなみに、カルト教祖にたぶらかされた

母親の亡くなった5年後に、綱吉もまた

後継ぎに恵まれないままで亡くなります。


次の六代将軍になって、生類憐みの令も

あっという間に廃止されてしまいます。


民衆の心を動かすということは、

形からではどうにもならないという

とても分かりやすい教訓ですね。