星空ハッピー劇場
The letter from my best friend
最愛なる友からの手紙
第3話 失われた記憶を求めて
長旅から帰宅して、まずはじめに私が思ったことは、旅先で自分宛てに届いたメールの内容だった。
久しぶりに長旅から帰って来たが
外はあいにくの雨で、荷物の整理や片付けにも手間取るかと思われた。
しかし湿気や寒さにも気がめいることなく、幸せな気分を邪魔することはだれにもできはしない。
もう少ししたら落ち着いた秋の深まりとともに、かけあしでやってくる冬の訪れを否応なく感じさせられる気候の変化もあるだろう。
何をあわてることもないが、悠長にのんびりとかまえてばかりもいられない。今や季節は収穫の時。恵み豊かな実りに感謝して、刈り入れをする時は今なのだから。
旅の荷物をひもといて、いるものといらないものを明確に分ける。
いらないものは全て処分し、いるものでも必要なものが必要な分だけ確保されたら、不要なものはおもいきって捨ててしまう。
あとは決められた場所に収納し、保管し、明確に何がそこにあるかを分かるようにして片付ける。
あわてることはないが、急がないわけにもいかない。人生の時は限られているから。
やるべきことはまだたくさんあるような気がしてならない。やるべきことなんて、見つけようと思えばいくらでも見える気がする。
秋に咲いた美しく可憐な花たちにより、あちらこちらの道の端には彩り豊かな愛らしい表情の飾り付けがなされ、見る人の目と心を存分に楽しませてくれる。
さわやかな晴天で照らされていた時には爽快な眺めだったが、雨に降られていてもまた趣きがある。
どんより薄暗い曇り空の下でも、清楚な感じの草花は、そこに咲いてくれているだけで、雨降りの天気でも楽しく嬉しい気分になる。
旅先の宿にて居心地よくくつろいでいたあの日、落ち着いて過ごさせてもらえる幸せな朝のひとときを満喫していたちょうどその時。
私にとって最愛の親友は、久々にメールを送ってくれたが、突然の連絡すぎて思わずあわてていた。
それは実際、私にとっては、本当にそれはそれは、久しぶりの間を空けての彼女からの連絡だった。
長い間の沈黙を破ってのメール。
今まで何度も何度も繰り返して連絡しようとしても、何の音沙汰もない状態だったのに。
なぜ、いまさら。
何事もないかのようなあいさつの言葉で始まり、最後にもう一度会いたかったと言って終わるまで、
息つく暇さえないくらいだった。
何かがあったのかとさえ思う。
一瞬、自分の感覚を疑う。
ちょっとこの人おかしくないか?
それとも自分が何かおかしいのか?
何を言ってるのかがわからない。
私にはすぐに理解することができないのだが。
どんな真意があり、何を言っていて、何を意味しているのか。
何もかもわからない。
これでもう、なにもかも終わりなのか、なにかが新しく始まるのかさえ、私にはわからないことばかり。
切実に思う。世の中にはわからないことばかりだと。だからこそ、世の中を生きることは面白いという人もいる。はたまた別の見方では、それはつまらないと思う。
その意味の違いはとても大きい。
積極的に自分から相手を理解しようとするか、消極的な気持ちで押しつけられて無理やり相手にあわせるかの違いは、決して小さくはない。
いやいややるくらいなら、やめてしまえば良い。何もかも捨て去り放り出せたらどれだけ楽になることか。
自分でもわかるくらいあわて取り乱しつつ、何をバカなことをと、たわいもない言葉をつぶやきそうにさえなってしまう。
なげやりな、つぶやき言葉は絶対に吐かないと、自分で自分にいつも言い聞かせているのだが。
たわいない言葉でも、ネガティヴな感情が全て自分に戻って来てしまう。下品で粗野で乱暴な言葉は使うまいと、常に自分に言い聞かせているのに。
汚い言葉や思いを、全て吹っ切るかのように、ただひたすらにいらないものを処分し続ける。
外は雨降りだが、それほど肌寒くもなく、秋といってもまだまだ冬は先なのか、それとも今年もまた暖冬なのか。いずれにせよ、季節の変わり目はしっかり準備しておかないと。
魂の奥底に頑丈に封じ込めていた昔のつらい記憶を、再びこの世に呼び覚まそうとすることは、何とも切ないことだと痛切に思う。
私が夢見ていたものは、失われた遠い過去の記憶を、蘇らせるための準備であり、それはなにか儀式みたいなものかもしれない。
威儀を正して無表情で、苦もなく楽もなくあたりまえのようにそれはとりあつかわれ、つらいことも苦しいこともなく、かといって気持ち良いものでさえない何か。
形のあるものはいずれ滅びるが、形のない思いも取り扱いやすいように加工できないものだろうか。
切り刻んだりはりつけあわせたりして人の力で創意工夫を施し、簡略化することが出来るなら、整理整頓もしやすくなるというものだ。
この人生にも、うまいこと工夫を凝らしていかなければならない。
失われた記憶を求めて、長い間の旅をしてきたことは、この人生のうちにおこる素敵な出来事や、様々な人との出会いにも通じる。
楽しく愉快なことばかりではないけれど、つらく苦しいことばかりなわけでもない。山あり谷ありこそ、人生の醍醐味なのだから。
私の人生で最愛な友と呼べる彼女から、再び連絡が来て以来、世界の全てが新しいものに見えるようになったことに間違いはない。
新鮮な命の躍動に満たされ、明確な魂の希望を燃やし、壮烈にして偉大なる愛と勇気の心がわいて生まれるその時は来た。
今、まさに今がその時だ。
人生の素晴らしい瞬間であり、失われた大切なものに再びめぐりあえる喜びは、何にも代えがたく嬉しい。
同時にまた世の中は、つらく苦しいもので満ちあふれているということが、よりよくわかるような気分にさせられる。
砂漠の中をさまよい歩く思いにもなる。
目で見えるものや耳に聞こえるもの、肌で感じて受け取れるもの、香りを感じたり味わえたりできるものは、頭での理解を超える。
それらはすべてみな、心からの愛しい気持ちの現われであり、無限に続く命の源を感じることだから。
この世の人にとってそれは、人生の糧であり、無限の愛であり、心の暗闇を明るく照らす真実の光。
自分自身が生活している環境をきれいにきちんと整える事は、終らりがないことのようにも思えるが、終わりの時は必ずくる。
遠い昔の記憶を掘り起こし、かつての自分自身と向き合うということは、なんと歯がゆくなんと切なく、なんと虚しいことだろうか。
人生における愛しい人との出会いの中で、痛みを伴わない別れはないが、人の心の傷みを理解できない人には、自分自身のその傷みさえも理解できないことだろう。
私には分かる。その傷みを感じることができる。君の傷は、私自身にも、同じ傷みを心に共有しているのだから。
理解できると言うのは、多少は思い上がりかもしれない。しかし、君が感じているその気持ちを、君と共に思い続けることはできる。
君がどれほど傷つき疲れて、救いを求めて今を生きているかを。
何を失い、どれほど傷ついて、過去を生きてきたかは分からないことだが、今の君と何を作り上げ、どれだけ癒され、これから先を生きてゆくか。
私には、それしかできない。
しかし、これだけは言える。
失われたものを捨て去るには、
心を取り戻すことであり、
今を共に生きることであり、
命を生み出すことであると。
降り続く雨もいつかは止む。
止まない雨は降らないし、
明けない夜もないだろう。
この心に訪れた重い暗闇も、
いつか晴れる時が来るだろう。
砂漠の中にあってさえも、
オアシスに出会うように。
第3話 完