僕の言葉は誰かからの借り物

僕の言葉は誰かからの借り物

似非な言葉に愛をささげて。

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僕の言葉は多分、誰かからの借り物でしかない。

だから無責任に、どんなことだって文字にできる。

 

でも口にはできない。それは目の前の誰かを傷つけることが怖いから。

「目の前にいる誰か」という冷めきった表現は、この場合、ある種の誤解を生みかねないから、正しい言葉に置き換えるとするならば「友達」である。目の前にいるのは友達であることが多い。同僚、後輩、先輩、取引相手。今回は全部ひっくるめて「友達」と呼ぶことにしよう。傷つけたくない、大切な人に対して、テキトーな言葉を投げかけることは失礼に値するだろう。だから、口にはできない。

 

一方、画面越しに目にする誰かのことを考えられるほど、僕の頭は高等なものではないから、文字に起こすことは容易だ。リアルじゃない。目には見えない。幽霊か妖怪の類と変わらない。(読んでくれているかもしれないあなたに対して、こんなことを言うのは失礼極まりないと重々承知している)

 

僕の一言について、どちらのほうが影響が大きいか?もちろんそれはネット、つまりはこういったブログのほうが絶大だろう。不特定多数の人の目につくわけだから。僕がネットという海に、小汚い石という名前の言葉ををぞんざいに投げ入れる。波紋が広がり、水面が慌ただしく揺れる。海が燃え、誰かが怒る。そういうことだ。

 

とはいえ、僕のこの文章や、これから書くかもしれないいくつかの記事たちが、それほど多くの人たちに見られることはないと思う。だから僕は気兼ねなく、できるだけ正直に色々なことを書いてみようと思う。

 

もしかすると癇に障ることがあるかもしれない。腸が煮えくり返り、ナイフで僕の喉を掻っ切りたい衝動に駆られることすらあるかもしれない。でも僕に対して怒りを向けないで欲しい。

なぜか?タイトルを読み返していただきたい。濡れ衣を知らない誰かに着せているはずだ。小心者の豆のような心臓のせいで、ブログのタイトルがこうなった。

 

ただ、本当のこと、本当に思っていること、感じていることを書いていこうと思っている。

あと書いておくべきことと言えば、借り物の言葉も、僕のフィルターを通せば新しい価値観に生まれ変わる可能性だってあるさ、ということくらいだろうか。そんな些細な期待が、ないわけではない。前提がひっくり返ってしまうから、それは小声でしか言えないけれどね……。