祖父とはまったく正反対のタイプの祖母。

埼玉から我が家の近くに引っ越してきてから、友達のような感覚で私の相手をしてくれていた。

活発でお喋りが大好きで、常にせわしなく動き回っている。

その動きがまた、祖父とは違ってダイナミック。

一年中素足の祖母は、早足で動き回っては、閉めたドアが跳ね返るほどパワフルである。

趣味は野菜作りと老人会の旅行。

ヤクルトとおせんべいを持って一輪車を押し、お日様と共に畑に出掛ける。お昼を食べに家に戻ると、午後からまた畑に出掛ける。

その家と畑の往復の道で近所の人を見つけては立ち話をする。

祖母は、茨城の田舎に引っ越してきてから、近所で知らない人が居ないほどの「お喋り大好きおばあちゃん」として有名である。

ある近所の人が「石井さんのばあちゃんに道端で会うと、家に着くのが一時間遅れる」と言ったほど、喋りだしたら止まらない。

私が遊びに行くと、祖母は近所の○○さんの息子の話から、自分の実家の話まで、それはそれは事細かに説明し、帰るタイミングをいつも逃してしまう。


対照的な祖父と祖母。

神経質で物静かな祖父は、大雑把で騒がしい祖母の行動に「お小言」を漏らすが、祖母は右から左に聞き流して、全く聞いていない。

まったく噛みあってないように見える二人だが、凸と凹で、意外とお似合いなのかもしれない。

そう思って二人のやり取りを見ていると、微笑ましく感じる。


祖母は85歳。

ここ一年で急に小さくなった。

どちらかと言うとがっちりとした体系で、顔も丸顔だったのだが、体は驚くほど小さくなり、顔もほっそりとした。

そのせいかシワも以前より深く感じ、また、頭が小刻みに揺れるようにもなった。

ただ、相変わらず超元気であり、パワフルには変わりがないので一安心というところだが。


この祖母もまた、私が遊びに行くと必ずお土産を持っていくので、「金使わなくたっていいから」と言ってティッシュで包んだお小遣いをくれる。

祖父に見えないところで、半ば強制的に私の手に握らされるそのティッシュに包まれた千円札は、やはり使うことができずにうちの引き出しにしまいこんである。

次のお土産は何にしようか。

また小さく畳まれたティッシュが増えそうです。

祖父が網膜はく離で入院していたときの話を母に聞いた。

命に関わる病気ではないのだが、母は、私にその時の祖父の様子を事細かに説明して、途中で急に息を詰まらせてこう言った。

「好き嫌いが多いじいちゃんがさ、ベットの上で背中丸くして、病院のご飯食べてるの見たらさ・・・あぁ・・・小さくなったなって思ってさ・・」

母はそう言いながら、鼻を真っ赤にして泣いた。

祖父はもう92歳。

母は、いつの日か訪れるであろう別れの日を恐れている。

「どっちが先だかわかんないけどさ」

そう母はおどけて見せたが、その思いが私にも痛いほど伝わって、なんと言えば良いのかわからなかった。

母にとっては「父」、私にとっては「祖父」。

どちらにしても尊い存在である。

あの日の母の顔を、前の記事を書きながら思い出した。
私が小学校4年生頃から、埼玉県に住んでいた母方の祖父母が、私の家の近くに引っ越してきた。

老後を田舎で暮らそうと、埼玉の家を売って茨城に家を建てたのだ。

私は祖父母が引っ越して来るまで、2、3度しか会った事がなかったが、母に連れられて遊びに行くうちに、立派な「おじいちゃん子」となり、いつの間にか週末は泊まりに行くようになっていた。

祖父は戦時中は炭鉱に働いており、その仕事の功績が認められ、勲章をもらった事があるほどのマジメな人。

祖父の家には、黒縁メガネをかけて昭和天皇と一緒に撮った写真や、「佐藤栄作」と判が押された賞状が飾ってあって、それを眺めては目の前に居る祖父とのギャップに不思議な気持ちになっていた。

私が知る祖父はいつもジョークを言って笑わせてくれるお茶目なおじいちゃんだからである。

母は「私が小さい頃はじいちゃんは堅物(かたぶつ)を絵に描いたような人だった」と言うが、今はそんな面影は無く、物静かでおもしろいおじいちゃんという感じだ。

とてもおしゃれで、髪は月に2回は自転車に乗って散髪に行き、綺麗に毛染めをしており、服装は明るい色のベストを好んで着ているので、92歳の現在もとても若く見える。

手先が器用で、母が子供の頃に住んでいた炭鉱の長屋には、手作りの噴水まで作ってあったそうだ。

私も小さい頃は、よく傘の骨や自転車を直してもらったのを覚えている。


そんな祖父であるが、意外にも祖父は精神的に弱いところがあるらしい。

埼玉に住んでいた頃は、都会の生活に馴染めなかったせいか、とても体が弱くよく寝込んでいたと聞いた。

茨城の田舎に越してきてからは、見違えるように元気になり、私の知る祖父となったわけだが、やはり心配事があると頭痛や眩暈がして寝込んでしまうことがいまだにあるそうだ。

先日も網膜はく離の手術をしたのだが、診察の段階で塞ぎこんでしまい、手術への不安で頭痛が絶えなかったと聞いた。

手術が終わり、すっかり視界が晴れると、嘘のように元気になったわけなのだが。

その入院の際、お見舞いに行けなかった私は、祖父の病室に元気が出るというオレンジ色の花を送った。

その後、機会があって退院した祖父を訪ねると、祖父はティッシュに包んだお金を私にくれた。

最初は断ったが、「祖父にとって私はずっと孫なんだな。。」と思い、ありがたく受け取った。

後からそのティッシュを開けると、千円札が2枚、綺麗にたたんで入っていた。

勿体無くて使えないよ、じいちゃん。

そのお金は、いまも使えずに大事にしまいこんである。

これからもきっと使われることがないだろう。


私が産まれたときには、父方の祖父はすでに亡くなっていたので、この祖父がたった一人のおじいちゃんである。

92歳の現在、とても元気でぼける様子もなく元気に生活している。

とてもありがたいと思う。

今月末に帰省するので、また遊びに行こう。

長女が結婚し引越してすぐのある日、両親と次女が口論をしていた。

話の様子から、次女が高校を退学したいと言っていることがわかった。

感情的になって叫ぶ次女に、父は「ふざけたこと言ってるんじゃねえ!」そう言って大きな手で次女の頬を殴った。

姉は殴られたその頬をおさえてしゃがみこみ、泣いていた。

父が子供を殴ったのは、これが最初で最後だろう。

「どんな思いで高校まで入れたと思ってるんだ!」

父は、学校を辞めるなんて絶対許さない。そういった様子だった。

母も学校を辞めることには反対しているようで、両親共に、次女の話を聞く様子ではなかった。



次の日、学校に行ったはずの次女は欠席しており、そのまま夜になっても帰ってこなかった。

その次の日も、また次の日も・・・。

両親は警察に捜索願いを出すと共に、友達や知り合いに電話をかけたり、車で探し回ったりした。

それでも、次女の行方は一向につかめず、時間だけが過ぎていった。

そんなある日の夜、母は私がもう寝たと思ったのだろう。父にぼそっと言った言葉が耳に響いた。

「由美子、学校でいじめられてたんだって・・・」


次女は両親が喧嘩になると、泣くことしかできない私のかわりに、また、殴られるばかりの母のかわりに、暴れまわる父にしがみつき、止めに入っていた。

私の目には常に強く映っていた姉だが、父を止めながら、やはりその目には涙が浮かんでいた。

いじめを告白することには、大きな勇気が必要だろう。しかしそれ以前に、姉はこんな経験からか、両親に心を開くことをやめてしまったように思える。

学校を辞めたいと言い出した時も、自分がいじめを受けている事を、一言も口にしていなかった。


次女の行方がわからなくなってから、何日目だっただろう。

その夜も両親は、幼い弟を長女に預けて次女を探しに走り回っていたので、私は一人で電話番をしていた。

そしてその日、一本の電話が鳴った――。

相手は知らない女の人だった。私が家に誰もいないと告げると、その女性は伝言を残して電話を切った。

「由美子が郡山にいるらしい」



しばらくして、公衆電話から母が電話をよこした。

「誰かから電話あった?」

私がさっきの女性の話をすると、母は「もう一回電話するから待てって」そう言って電話を切り、10分ほどして、また電話を掛けてきた。

「今、警察の人と代わるから、さっきの話をもう一回して」

そう言うと、電話の声が男性に変わった。

私は、警察と話していることに緊張したが、それよりも「警察沙汰」になっていることが恐ろしくなり、足がガタガタと震えた。

そして一通りの説明が終わり電話を切ると、この家にいるのが私だけだと思い出し、心細さに襲われ、涙が出た。



しばらくたって、両親は一旦帰ってきたが、警察の協力で更に詳しい情報を得たのか、私が眠った後に郡山に向かった。


次の朝になり、長女に作ってもらった食事を食べ終え学校へと向かっていた私は、父の車がこちらに向かってくるのを見つけて手を振った。

私の横を車が通り過ぎる瞬間、助手席には母が座り、後部座席には次女がガラスにもたれかかるように座っているのが見えた。

「お姉ちゃん見つかったんだ・・・」

両親は、夜中のうちに郡山に行き、姉を連れ戻して来たのだ。


こうして次女の長い家出は終わり、後に高校を中退した。

そして、父が次女に言った。

「あの時は殴って悪かった」

照れ隠しなのか、言い捨てるような口調だったのを覚えている。
中学校に入学してすぐ、全身に衝撃が走るような一目惚れをした。

相手は、数学と技術担当で、野球部の顧問をしていた、当時27歳くらいの先生だった。

それまで、恋と呼べないような、なんとなく「仲良しを過ぎたくらい」の感情は経験したことがあったが、今回はまるで違った。

初めて見た日から、その姿を見るたびに顔が一気に熱くなり、心臓が口から飛び出しそうな、もう居ても立ってもいられないような状態だった。

好きで好きでたまらなかった。

いまだに、あれほど体が異常を起こす恋を、私はしたことがない。

寝ても覚めても、どうすれば先生はこの気持ちに気付いてくれるだろうか?どうすれば先生は振り向いてくれるだろうか?そんなことばかりが頭の中を支配していた。

手紙を書いてみようか。電話して、相談があると言えば来てくれるんじゃないか。下駄箱にプレゼントを入れてみようか。

ドラマのように、雨の中を先生の家の玄関先で待っていたら、「とにかく入れ」とか言ってタオル貸してくれて、そこで告白しちゃったらもしかして抱きしめてくれるんじゃないか。

こんな具合に、12歳の足りない頭でストーカーまがいのありとあらゆる妄想を繰り広げた。

そして色々考えた結果、まず始めたのが「数学をがんばる」という、かわいらしい努力だった。

先生の授業は、内容を聞くよりも先生に見とれていて、ほとんど聞いていなかったが、なんとかがんばって80点以上をキープした。

それから一度、手紙(と言ってもメモ程度)を学校に停めてある先生の車のワイパーに挟んだことがあった。

内容は、「先生大好きだよ!」

・・・まったくもって恥ずかしい限りである・・・。

その後、友達に手伝ってもらってバレンタインにはチョコを下駄箱に入れたり、先生がしている時計に似たタイプの時計をお年玉で買って、またまた下駄箱に入れたりもした。

恐ろしいことに、そのいずれもを匿名でしていたので、先生はさぞかし気味が悪かったのではないかと思う。

しかし、先生は私がしていることであると気付いていただろう。

根拠はないが、私の先生への接し方は、誰がどう見ても「恋する乙女」であったはずだ。

「何も隠してないよ!」と手を後ろに隠している幼稚園児のようなものだったに違いない。



そんな、なんともイヤラシイ努力を続けていたある日、次は先生の授業があるということでルンルン気分で技術室に向かった。

授業が始まり、作業の説明が始まった。全員が先生を囲み、説明を聞いている。

説明を聞くよりも先生に見とれていた私は、ふと我に返り、説明する先生の手元に目をやった。

すると、先生の腕には、私がプレゼントした時計がはめられていた。

心臓の音が「バクン」と聞こえて、今にも倒れそうなくらいうれしかった。



「あれはなんだったのだろう?」

先生が私のプレゼントした時計をしてくれた意味を考えた。

「もしかして、ちょっとOKサイン?ムフ。」

なんてことも思ったが、その意味はいまだにわからずじまいである。。

そして、中2の時にこの先生が他校へ転勤して以来、一度も会えないまま13年が経った。



現在、この先生が夢に出てくる。多いときは週に2、3回。

日常生活で全く思い出すことがなくても、なぜか夢には出てくる。

その夢のなかで、時には自分の彼氏という設定になっていてやさしくされたり、またある時は思いが届かなくて切なかったり・・・。

色々なパターンはあるが、かなりの高確率で夢に出てきて、その度にあの頃のことを思い出す。

そして、自分自身に「忘れてはいけないよ」と言われているような気になってしまう。

私は思う。

この恋は一生続くだろうと。

成し遂げられなかったからこその思いなのかもしれない。

憧れで終わった恋だから、ずっとキレイに残っているだけかもしれないとも思う。

そうだとしても、私の中で、この恋はその姿を変えずに残っていることは事実である。

私は、この先生に恋をしてから、その先でどんな人とどんな恋愛をしても、そのすぐ隣では先生への思いを忘れてはいなかった。

きっとこの先も、この恋は一生続くのだろう。

そして、この恋が生涯このまま続くことを、私自身が望んでいる。







常●●田市のK・T先生、見てたら連絡ください(笑)
私が小学校6年生になると同時に、長女は高校を卒業し、地元のホテルに就職した。

姉はその時期、料理や裁縫に興味を持ち、勤め先のホテルのレストランで出される料理やデザートのレシピを聞いてきては材料を買い揃えて作ったり、本を見ながら編み物をしたりしていた。

私は、姉の作る今まで食べたことのない料理の試作品の「おこぼれ」に預かるのをとても楽しみにしていた。

中でも、母が作るものとはまったく違う「牛肉たっぷり」の肉じゃがと、初めて食べるティラミスは、最高においしかったのを覚えている。

姉は、うまくできた料理は付き合っていた彼氏の家まで運び、二人で食べていたようだ。

その彼氏というのが、我が家から徒歩3分のところに住む、父の酒飲み友達の息子だったのだが、父は近所の人が噂するのを嫌って、二人が付き合うことに反対していた。

姉が車の免許を取り、彼の家に車を停めることが多くなると、父は更に口うるさくなり、そのことをめぐって口論が起こっていた。

一方母は、どちらかというと肯定的であり、「男はオオカミだから気をつけなさいよ」などと姉に言っていたのを聞いたことがある。

そんなある日、姉の机に「自分で作る子供服」という本を見つけた。

「姉ちゃんらしいなー」

姉が裁縫が好きなのを知っていた私は、その本になんの疑問も持たず、パラパラとめくっては見たが、難しくて意味がわからなかった。

そして、その本を見た後すぐに、母にこう言われた。

「純ちゃん(長女)の机の本見た?」

母はそれだけ言うと、意味深な顔で私の顔を見た。

なんだ?と思ったが、少し考えて姉が妊娠しているのだと気づいた。

「うっそ~!」

姉はまだ18歳。高校を卒業して就職したばかりだ。

しかし、私の予想は外れてはいなかった。

その後、彼氏の両親が我が家にあいさつに訪れ、我が家の両親と本人たちとでの話し合いが行われた。

私は子供部屋から、その様子を覗いていただけだが、長女がずっと泣いていたのが印象的だった。

その席で彼の父親がこう言ったらしい。

「今日は殴られても仕方がないと思ってここに来た」

すると、父はがこう返した。

「人様の息子殴るほど、できた人間じゃねえから。」

ごもっともである。



長い話し合いの後、長女の結婚が決まった。

結婚式では、姉はただ徒歩3分の家に引っ越すだけなのに、すごく遠くに行ってしまう気がして、泣いてしまった。

すでに大きくなったお腹で結婚式を終えた姉は、半年もしないうちに元気な男の子を出産した。

母がこの姉を産んだときと同じ19歳だった。

そして、産まれた子供は両家にとって初孫であり、更に男の子とあって、お祭り騒ぎだった。

次女は17歳で、私は12歳で「叔母さん」となり、弟は保育園児で「伯父さん」となった。

両親が結婚して15年。

母の両親に結婚を反対され、裸足で逃げ出した二人――。

あの時の二人が思い描いた未来は、どんなものだったのだろう?



15年の歳月が過ぎ、4人の子供をもうけたが、二人の間には憎しみをぶつけ合う為の言葉しか交わされていなかった。

父は、自分の両親がすでに亡くなっていること、遠方に住む兄姉とも不仲で疎遠になっていることで、孤独感がとても強かった。

母の両親は健在であり、近くに住む姉と仲が良く、頻繁に遊びに行っていたことにも不満だったようだ。

父は孤独感を埋めるために、母に自分の満足する全てを要求し、不満があれば酒の力を借りて暴れまわった。

例えて言うなら、子供が「お前ばかり親も兄弟も居てずるいじゃないか」「俺は淋しいんだ!だから優しくしろ」と癇癪を起こしているようなものだった。

そのせいで母の心を一層遠ざけ、自分が更に孤独になることを、父は気付いていなかったのだろうか。

あるいは、わかってはいても、自分をコントロールすることができなかったのかもしれない。

更に母は、父に常に「つっけんど」な態度を崩さなかったことが、また父の逆鱗に触れ、終わりの無い悪循環を繰り返していた。



そんな二人の間には、当然あいさつなど交わされることはなく、父が仕事に出掛ける時も、母の口から「いってらっしゃい」という言葉を聞いたことはなかった。

それどころか、母は父が起きる前に用意した弁当を玄関口にポンと置き、勝手に持っていけと言わんばかりだった。



酒を飲んでいない時の父は、口数が少なく、必要以上の言葉は発しない。

ある日、黙ってその弁当をつかみ、誰にも見送られずに出勤する父を見たとき、なんだか父がかわいそうに思えて、切なくなってしまった。

そして次の日から、少々照れくさくはあったが、出勤する父に「いってらっしゃい」と言葉をかけるようにした。

父は慣れない言葉に驚いた様子だったが、照れくさそうに「はーい」とも「あーい」とも聞こえるような、そんな返事をして出掛けて行った。

そして、仕事を終えて帰ってきた父は、いつもより上機嫌で酒を飲んだ。



父は言う。

「俺みたいな男は、うまく持ち上げておけば黙ってるのに、まったくうちのおっかぁはバカでどうしようもねえ」

自分で言うのもどうかとは思うが、この言葉には一理あると思う。

母が一歩引いて、子供のようなこの父をうまくなだめ、「手のひらで転がす」ことをしていれば、家族の悲しみはもっと減らすことができたのではないだろうか。

別れることもせず、歩み寄ることもせず、ただ、いがみ合う姿だけを見せられてきた。

誰が悪いかなんて言ったらキリがない。

しかし、15年が経ち、家族が悲しみ、苦しみ、泣いている。

お互いがお互いに、間違った15年を進んでしまっていたことは否定できない事実であると思う。
小学校低学年の頃だったと思う。

休み時間の教室で同級生の松原君に声をかけられた。

「ねーねー。あすか、ちょっと来て。先生が呼んでる。」

彼はそう言うと、自分の後ろを付いてくるようにと促した。

私は、職員室へ向かうであろう、小走りで急ぐ彼を追いかけた。

しかし彼は、体育館の横の人気の無い通路まで走ると、不意に振り返りいきなり抱きついてきたのだ。

「ガバッ」っという効果音がぴったりな光景だっただろう。

何が起こったのか分からなかった。私の顔は恐怖ですごいことになっていただろう。

私は急にのしかかってきた彼の体重によろけながら、反射的に彼を自分から引き離そうと、彼の肩のあたりを強く押し返し、もみ合いになった。

しかし、小学生とは言っても、やはり男の子に力では叶わない。

引き離そうとする私の力よりも、引き寄せようとする彼の力の方が強かった。

大きな声を出そうかとも考えた。しかし、人に見られたら恥ずかしいという気持ちが頭をよぎり、この案は一瞬で却下された。

「なんとか逃げ出そう。教室まで逃げれば、こんなことはしてこないだろう。」

しばらくの間、彼に応戦していたと思う。

それでも彼はしつこく私に抱きついてきて、更には暴れる私の口の端っこに彼の唇と舌が吸い付いてきた――。

「汚い・・もう最悪だ・・・」

彼のネチョっとした舌と唾液の感覚が不快でたまらなかった。

それと同時に、誰かに見られていないかとハラハラした。

私の同意の上でこんな状態になっていると誤解されたらどうしようかと。

またしてもこんな時にこんな心配をしてしまうとは、悲しい性格である・・。



松原君は私にキスができたことで満足したのだろうか。

私の体からその手を離し、後ろを振り返りながら逃げるように走り去って行った。

ニヤニヤしながら走り去る彼を見て、「やっと終わった」と胸を撫で下ろした。

それと同時に、彼の行為への不快感と怒りを感じた。

そしてそこには少し、大人だけがすることであるはずの「キス」を自分がされてしまったという恥ずかしさが混じっていた。

その後、私は水道まで走り、口元で乾いて臭くなった彼の唾液を洗い流した。

悲惨なことに、これが私のファーストキスの思い出である・・・。






この松原君の話には続きがある。

彼は、地域でも有名な厳しいお母さんを持つ子だった。

立派なお屋敷に立派な家柄。お母さんは、「立派な子供」を育てたかったのだろう。

塾や家庭教師はもちろん、ピアノやバイオリンまで習っており、家で口にする食事やおやつは、添加物ゼロで全てお母さんの手作りという徹底ぶりだった。

家の外でスナック菓子やジュースやカップラーメンを口にしたことがばれると、酷く叱られ、殴られていたらしい。

そのせいか、彼は「大人の前では優等生」の典型的なタイプの子供だった。

大人の居ないところでは乱暴で、先頭に立って悪巧みをしたが、先生や親の前ではその本性をスッと隠す。それがとてもうまい子だった。

彼は、理想を追求しすぎた母親の、ある意味犠牲者だったと思う。

しつけや教育にがんじがらめにされて、彼の心は荒んで行ったのだろう。

中学に入ると、彼がバットで母親を殴っているという噂を耳にするようになっていた。

そして、彼と同じ中学に通っていた私は、そこで彼の許し難い行動に遭遇することになる――。

その話はまた後ほど・・・。
*この記事には「汚い」「今にも臭いそう」な危険な香りが漂っております。お食事中の方・気分の悪くなりそうな方はご遠慮ください。

いつもより酷く酔って帰った父。深夜に片っ端から電話をかけまくり、勝手に怒り出しては怒鳴り散らし、最後は一方的に電話を切るという事を繰り返した。

幸いその日は、母にその矛先が向けられることはなかったが、やっと電話をかけることを止めたと思った途端、父は、そこに座ったまま嘔吐した。

電話機もコタツ布団も、父の嘔吐物にまみれ、アルコールと胃酸の混ざった臭いが部屋中に立ち込めた。

私はそれでも寝たふりをしながら、その臭いから逃れようと布団の中に潜り込む。

しかしそれも長くは続かず、息苦しくなると布団の隙間から空気を吸いこむしかなかった。

その隙間から入り込んでくる臭いに、私は吐き気をおぼえた。



いつの間にか眠ってしまったらしい。母の声で目が覚めた。

昨夜、父が嘔吐したことを忘れていた私は、頭まで被っていた布団をめくった。

そして次の瞬間、鼻につく臭いで昨夜の出来事が現実だったのだと思い知らされた。

隣の布団を見ると、父が背中を向けて寝ている。

テーブルだけは片付けられていたが、父の枕元には昨夜の嘔吐物が放置されていた。

母は、部屋中に撒き散らされた嘔吐物が見えていないかのように、私に父を起こすよう促した。

こんな状態で仕事に行くわけがないのだけれど。

私は、家の中をこんな状態にした父に話し掛けたくはなかったが、母に言われたので仕方なく父を起こした。

「お父さん、時間だよ」

「・・・・・・」

返事が無いので母にそのことを告げると、母が台所からうんざりしたような口調で父に言った。

「どうすんのよ!休むの!?」

「あぁ」

父はやはり仕事に行かなかった。


そんなやり取りを暗い気持ちで横目に見ながら、学校に行く時間になった。

しかし、出発しようとランドセルを背負ったまではよかったが黄色い帽子が見当たらない。

狭い部屋中を探したがそれでも見つからず、最後に、コタツ布団をめくって中を覗いた。

「あった~!」

安堵感と共にその帽子を取り出したが、その帽子の中は父の嘔吐物でいっぱいだった―。



母はそれを見て、新しい帽子を買う為のお金を私に持たせた。入学式でさえ新しいものは買わずに、ずっと姉のお下がりの帽子だったのに。

その日は帽子を被らずに登校した。事情を知らない何人もの子に、なぜ帽子を被ってこないのかと聞かれ、その度に泣きたくなるような気持ちになった。

そして、その中の一人にこう言われた。

「あーちゃんち貧乏だもんね。でも帽子は買ってもらいなよ」

とても傷ついた。

うちは貧しいとわかってはいたが、人から「貧乏」と言われることは初めてだった。

その日はずっと、下を向いて学校へ向かい、ほとんど言葉を発しなかった。




放課後、母が学校まで迎えに来た。

家は臭くて居られないからとのことだった。

私は学校で買った新品の帽子を被り、車に乗り込むと、

「お母さん貯金いくらあるの?」

そう聞いた。

「お父さんと離婚してさ、5人でアパートに住もうよ。」

なんとか父親の居ない生活を。本気でそう願った。

母は、「そうだね」と困ったように言っただけで、スーパーに向かい、菓子パンを買って私に食べさせた。

その後、姉達を迎えに行き、少し遠い所までドライブをして、夜になってから家に帰った。

家の中はやはり異臭が立ち込めており、父はまだ寝ていた。

こんな父親なんていらない。本当にそう思った。

この後、父は数日間仕事に行かず、いたるところに染み付いた異臭は、一週間経っても消えなかった。

*この記事には乱暴な言葉が使われています。ご了承ください。


どこで飲んできたのだろうか?その日の父はいつもより更に酷く酔って帰ってきた。

私はすでに寝ていたが、玄関をバタン!と勢いよく閉める音で目を覚ました。

子供の私が目をさますほどの大きな音。きっと母も目を覚ましているだろう。

しかし、起きていることを父に気付かれると、しつこくされるのを知っていたので、寝たふりを決めこんで父の様子を伺っていた。


父は帰ってくるなり、ブツブツと文句を言いながら黒電話を棚の上からこたつに引きずり下ろそうと苦戦している。

電話の近くにあった物がバタバタと音を立てて落ちているのがわかった。

「ぶっ殺す」「ふざけんじゃねえ」

誰に言っているのか、静まり返った我が家にそんな言葉が響いた。

やっと自分の目の前に電話を置くと、今度は電話帳を探している。

見かねた母が、呆れたように父に声をかけた。

「どこに電話するの?もう夜中だよ。12時過ぎてるでしょうよ」

私は、母が父のすることを止めようとすると、必ず大喧嘩になるのを知っていたので、寝たふりをしたままの状態でヒヤリとすると同時に、鳥肌が立った。

しかしその日の父は

「やかましいこの野郎!」「クソ女!」

と汚い言葉で母を罵ったが、立ち上がって母を殴ることはなかった。

電話帳を見つけた父は、目当ての電話番号を見つけたらしく、番号を声に出して読みながらダイヤルを回している。

しかし、酷く酔っているため、ダイヤルを回すのが遅すぎて繋がらない様子だった。

父はその度に一度受話器を置き、再度ダイヤルを回すことを繰り返した。

受話器を置いたときの「チン」と鳴る音と、ダイヤルを回す「ジー」と言う音が何度も何度も繰り返された。

そしてやっとどこかに電話が繋がると、さっき母を怒鳴った声とは別人のような声で「おー俺だけど」と話出した。

ろれつは回っていない。

話の様子から、電話の相手は父の兄のようだ。

父は機嫌よく自分の言いたい事をしばらく並べると、思い出したように急にその口調を変えて暴言を吐き始めた。

「ふざけたこと言ってるんじゃねえ!」「もういい!」

ガチャン!と勢い良く受話器を置いた父は、今度は父の姉の家に電話をかけ始めた。

そして、兄のときと同様に、一通り話が終わると、また思い出したように暴言を吐き始めた。

「てめえ!今からぶっ殺しに行くぞ!このやろう!」

そしてまた、ガチャン!と受話器を置いた。


父は、電話魔である。夜中の何時だろうと、「今帰ってきたんだ。」と、ろれつが回らない状態であちこちに電話をかける。

受けたほうは非常に迷惑極まりない話である。

そして、その電話の後には、母への暴力が待っている。しかしこの日、違う意味での「悲劇」が私を待っていた。