「圭介さん、今日は梅田のウインズに行ってはったんですか?」
小首を傾げながら、ひとみがわたしに尋ねた。
首が細くて長めだから、タートルネックがよく似合う。
トスカーナのワインがだいぶ回ってきたのか、目元がほんのり赤い。
「ええ。ひさしぶりに馬券を買ってみようと思って」
「ひさしぶりに?」
ピンクのくちびるがぷるんと動く。
「うん。競馬はずっとやめてたから。ウインズへ行くのも馬券を買うのも、もう十年ぶり以上だね」
「へえー、そんなにひさしぶりに? 圭介さん、なんでまた競馬をやろうと思いはったんですか?」
ワインをひと口飲んでから、ひとみがまた質問した。酔うとからむタイプなのかも知れない。
「ステイゴールドが亡くなったって聞いたから、ステイゴールドの子どもを応援したくなったんだ」
亡くなったステイゴールドのことをまた思い出し、少し悲しい気持ちになった。
わたしはビールをひと口飲んだが、このジョッキが何杯目のビールなのか、よくわからなくなってきた。
テーブルの上には料理の皿がたくさん並んでいたが、肝心の料理はみんなであらかた食べてしまって、食べ物はもうお皿にあまり残っていない。そろそろお腹もいっぱいだ。
「圭介さん、ステイゴールドがお好きなんですか?」
中川が急に話に入ってきた。
ひとみの真似をして、中川もわたしのことを圭介さんと呼んだ。
「ぼくも好きなんですわ、ステイゴールド。急に亡くなったって聞いて、めっちゃショックでしたわ。次の日は仕事休もうかなって思いました」
「へえー、でも中川さんはまだお若いから、ステイゴールドが現役の頃とか、あまりご存じないでしょう」
中川の正確な年齢はわからないが、ステイゴールドはもう十三年も前に引退した馬だ。
たぶん中川はステイゴールドの現役時代をぎりぎり知っているかどうかという世代だろう。
「いやいや、何をおっしゃいますか。ぼくは中学生の頃から毎週テレビで競馬を観てましたから、ステイゴールドのことはよう知ってますわ」
「そうなんですか?」
わたしはちょっと驚いた。中川は筋金入りの競馬好きのようだ。
「ええ。中学の時、競馬ゲームにはまりましてねえ。それから実際のレースも観るようになったんですわ」
「ああ、あの競走馬を育成するやつね」
ダービースタリオン。わたしも学生時代にスーパーファミコンでよくやっていたゲームだ。
九〇年代の後半からブームになり、当時はあのゲームがきっかけで競馬をはじめる人が多かった。
「ステイゴールドって、オルフェーヴルやゴールドシップのお父さんですよね?」
ひとみも会話に加わろうとする。
「今じゃそう言われてますけどね。現役の競走馬やった頃は、個性的ですごく人気のある馬やったんですわ。ねえ圭介さん」
中川はわたしに同意を求めた。
「そうそう。GⅠレースでいつも好走するんだけど、なかなか勝てなくてね」
「いっつも二着か三着ばっかりで」
中川はうれしそうに笑った。
ステイゴールドについて語る時、競馬ファンはなぜかみんな笑顔になる。
「デビューから五十戦目で迎えた引退レースの香港ヴァーズ!」
わたしが言うと、中川の目が輝いた。
「第四コーナーを回って、後方にいたステイゴールドが前に進出! 最後の直線、ようやく二番手に上がったステイゴールドは怒涛の追い込み!」
中川がいきなり実況をはじめた。わたしも続けて言ってみる。
「先頭のエクラールとはまだ五馬身以上の差がある! 絶望的な位置からステイゴールドが猛然と追い上げる!」
ここからはわたしと中川だけの世界だ。
「しかし、いつもは左に斜行する癖のあったステイゴールドが、この時、なぜか右に斜行した!」
中川の言葉に続いて、わたしも負けずに言ってみる。
「おまけに落鉄!」
「鞍上の武豊騎手が手綱をあやつり、態勢を立て直したステイゴールドは、再び前のエクラールを追う!」
「先頭のエクラールとの差が三馬身、二馬身、一馬身となって、ようやく馬体が並んだところがゴール!」
「さあ、ステイゴールドかわしたか!」
「写真判定の結果、ステイゴールドが頭ひとつ前に出ていた!」
「勝ったのはステイゴールド!」
「ラストランとなった香港の地で、ついに悲願のGⅠ制覇!」
中川とふたりで笑いながら拍手した。
「いやあ、二〇〇一年の香港ヴァーズ、なつかしいですわ」
「いいレースだったねえ」
思い出してちょっと涙が出た。
あの年の香港ヴァーズは思い出のレースだ。あれを超える感動はない。
いくら負け続けても、最後に勝てばいい。あの引退レースで、ステイゴールドがわたしに教えてくれたことだった。
「……なんかふたりですごい盛り上がってはりますけど」
ひとみがそう言ってまたワインをひと口飲んだ。
いつの間にかフルボトルのワインも二本目が空いていた。
こんなに飲んでだいじょうぶなんだろうか。
「最後の最後にGⅠレースを勝つなんて、映画みたいな馬ですね」
あかりはそう言ってくれたが、ステイゴールドのむかしのレースで盛り上がるおじさんふたりにあきれただけかも知れない。
「そう。ステイゴールドの一生には、すごいドラマがいっぱいあるんだよなあ」
わたしはジョッキのビールを飲み干した。
「圭介さん、ぼくらもワイン飲みましょうよ」
中川の提案を断る理由はない。
「いいねえ。もう一回、乾杯するか?」
わたしは酒だけは強い。それにどうせ今日は兵頭のおごりだ。
「そうしましょう。いまは亡きステイゴールドに乾杯ですわ!」
中川は店長に三本目のトスカーナのワインを頼んだ。
(第23話へ続く)
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