Mr.C.B.「ヒヒ~ン。」

Mr.C.B.「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

Mr.C.B.「パカッ。」

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ブルルルルルルルルルルル。]

北海道・浦河の大地で育まれた、グッドルッキングホース・ミスターシービー。


1985年10月6日に東京競馬場で行われた引退式の後、美浦トレーニングセンターの松山康久厩舎の馬房に戻っては、過ごしていました。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ブルルルルルルルルルルル。」

ミスターシービーは、大きい雄叫びでいななきながら、馬房での生活を過ごした馬です。

朝の松山康久厩舎の馬房には、三冠を達成した、ミスターシービーが長く過ごし成長していきました。

Mr.C.B.「ウ~~~~~~~~~~~~~~~!」

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

ミスターシービーは、大きい緑色のうんちを落として体を整えていました。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒヒヒヒヒヒ~ン!」

ミスターシービーは、大きい雄叫びでいななきました。

松山康久厩舎に馬運車が到着し、馬房にいた、ミスターシービーを乗せるのを待っていました。

1982年(昭和57年)4月に、入厩して以来、長く過ごした、野性の男雄児・ミスターシービーも、種牡馬として生活を送るため、松山康久厩舎の馬房を退厩し、馬運車に乗り込みました。

グッドルッキングホース・ミスターシービーは、1982年(昭和57年)4月に入厩以来、長く過ごした、美浦トレーニングセンター・松山康久厩舎を後に、馬運車で繋養先の、社台ファーム・早来牧場(現・社台スタリオンステーション・早来 ノーザンファームに隣接)にむかいました。

黒鹿毛の馬体をもった、野性の男雄児・ミスターシービーは、涙を流しながら、いななきました。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒヒヒ~ン、ヒヒヒヒヒヒヒ~ン!」

グッドルッキングホース・ミスターシービーは、馬運車の中で長い道のりを過ごしました。

グッドルッキングホース・ミスターシービーを乗せた馬運車は青森港~函館港間をフェリーで移動する為、馬運車ごと乗船手続きを済ませ、フェリーで本州の青森を後に、北海道の函館に3時間40分(50分)の船旅を楽しみ、函館港入港と同時に馬運車ごと下船しました。


野性の男雄児・ミスターシービーは馬運車でさらに長い道を走り、朝・北海道・勇払郡・早来町(現・安平町)早来源武275・276番地にある、社台ファーム・早来牧場(現・社台スタリオンステーション・早来 隣接してノーザンファームがある。)に到着し、馬運車をおりて、種牡馬厩舎の馬房に入りました。

1986年(昭和61年)1月・ミスターシービーは牡・7歳の男馬になりました、この年から種牡馬生活を開始する為、社台ファーム・早来牧場(現・社台スタリオンステーション・早来)の種牡馬厩舎ですごしていました。

Mr.C.B.「ブルルルルルルルルルルル。」

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

体作りの為の運動を終えた、ミスターシービーは、いよいよ、種牡馬としての新生活を始めたのです。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ブルルルルルルルルルルル。」

放牧場にグッドルッキングホース・ミスターシービーを入れて、手綱などを外しては、放牧を始めました。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒ~ン!」

Mr.C.B.「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

Mr.C.B.「パカッ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ。」

Mr.C.B.「カポ。」

Mr.C.B.「ブルルルルルルルルルルル。」

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

Mr.C.B.「ウ~~~~~~~~~~~~!」

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

ミスターシービーは、大きくて緑色のうんち(💩)を落としていました。

ミスターシービーは、北海道・浦河の大地で育まれた馬です。

種牡馬になり、早来に来たとは言え、雄大な北海道の大地に抱かれて育った、ミスターシービーは、父・ミスターシービー(SIR・Mr.C.B.)として、ミスターシービーチルドレン(Mr.C.B.CHILDREN)あるいは、シービーチルドレン(C.B.CHILDREN)を輩出していくのか問われるとの事でした。

Mr.C.B.「ムフ、ムフ、ムフ、ムフ、ムフ、ムフ、ムフ。」

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~~~~~ン!」

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

ミスターシービーは、大きい雄叫びでいななきました。

Mr.C.B.「カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ。」

Mr.C.B.「ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ。」

Mr.C.B.「バシャ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」

ミスターシービーは、大きい緑色のおしっこ(尿)を出していました。

Mr.C.B.「プ~~~~~~~~~!」

Mr.C.B.「ヒヒヒヒヒヒヒ~ン!」

ミスターシービーは、大きい雄叫びでいななき、フレーメンをだして匂いを嗅いでいました。

1986年2月・社台スタリオンパレード 1986が、社台ファーム・早来牧場(現・社台スタリオンステーション・早来)で行われ、当時・新種牡馬としてスタッドインした、グッドルッキングホース・ミスターシービー(Mr.C.B.)などの種牡馬たちが勢ぞろいし、登場しました。

Mr.C.B.「カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ。」

Mr.C.B.「パカッ。」

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

ミスターシービーは、大きい声でいななきながら、飛び跳ねていました。

Mr.C.B.「ウ~~~~~~!」

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト。」

ミスターシービーは、大きい緑色のうんこを落したので、社台ファーム・早来牧場(現・社台スタリオンステーション・早来)の職員は、綺麗にミスターシービーのうんこを掃除していました。

当時・新種牡馬として、スタッドインし、繋養された、ミスターシービーですが、日高山脈の麓の牧場から、繫殖牝馬の種付けの申し込みが殺到して、満口になるほどの盛況ぶりでした、

ミスターシービーを父に持つ産駒は、Mr.C.B.CHILDREN(ミスターシービーチルドレン)或いは、C.B.CHILDREN(シービーチルドレン)と呼ばれ、日高山脈の麓の牧場でも、人気を集めたのでした。

1987年(昭和62年)には、皇帝馬・シンボリルドルフも種牡馬入りすると、ミスターシービーは種牡馬としては不遇の時代を送りました。

そんな中・ミスターシービーの初年度産駒 第1号・コックピット(操縦席・英)が、中央競馬で競走馬デビューすると、ミスターシービーチルドレンが相次いで競走馬デビューすることになったのです。

中でも、1980年(昭和55年)生まれで不出走のまま、繫殖牝馬入りした、シュアンスを母に持つ仔馬・シュアンスの1988が新冠町の川島牧場でミスターシービーチルドレンの1頭として生まれたのです、後に(株)シャコーが購買し、シャコーグレイドの競争名で登録され45戦2勝の成績で活躍し、誘導馬をへて亡くなるまで乗馬・功労馬として第2・3の馬生を送ったのです。

又・シュアンスの1988(シャコーグレイド)は、シンボリルドルフチルドレンの、トウカイテイオーと皐月賞で火花を切らしながら競い合った、ミスターシービーチルドレンVSシンボリルドルフチルドレンの戦いは競馬ファンに伝説として語り継がれております。





1991年(平成3年)社台ファーム・早来牧場(現・社台スタリオンステーション・早来)で繋養生活を送った、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、サンデーサイレンスを導入した事と、浦河の大地で育まれた馬であることから、生まれ故郷・浦河郡・浦河町の岡本牧場にほど近い、静内郡・静内町(現・日高郡・新ひだか町)の、レックススタッドに移動し、1999年(平成11年)・秋の種付けシーズンで種牡馬を引退するまで、繋養生活を送った。


レックススタッドに移動した、ミスターシービーは、隣接する浦河郡・浦河町民の歓迎をうけたのである。

次の日から、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、静内での繋養を開始したのである。

Mr.C.B「ヒヒ~ン!」

Mr.C.B「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

Mr.C.B「パカッ。」

Mr.C.B.「ブルルルルルルルルルルル。」

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒヒヒヒヒヒ~ン!」

ミスターシービーは、遠い日高山脈の空に大きい雄叫びでいななきました。

Mr.C.B.「ウ~~~~~~~~~~!」

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

ミスターシービーは、大きい緑色のうんこを落としてやりました。

シービーチルドレンの1頭で、サンヨウアローの産駒・ウイングアロー(父・アサティス)が、ジャパンカップダートを制覇し初代・ジャパンカップダート優勝馬に輝くなど、ミスターシービーチルドレンの産駒で繫殖牝馬になった1頭の仔が世界ダートの頂点に立ったこともあり、ミスターシービーは、種牡馬として活躍したのであるのでした。

しかし、種付け能力の低下などから、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、1999年(平成11年)秋の種付けシーズンをもって、長く活躍した、種牡馬生活を引退、千葉県・成田市・本城の、千明牧場・三里塚分場で、功労馬として余生を送ることになり、同年の冬には、馬運車で1986年(昭和61年)スタッドインして以来、長く繋養生活を送った、北海道を去りました。

レックススタッドを後にした、ミスターシービーは、馬運車で、函館港へ移動、ここからフェリーで本州の青森港に馬運車ごと移動し、さらに高速道路を走って、千明牧場・三里塚分場に到着、母で、2004年(平成16年)に亡くなった、シービークイン(C.B.QUEEN)と、久々に再開しました。

(この間の、種牡馬として繋養生活を開始した、1986年(昭和61年)2月には、グッドルッキングホース・ミスターシービー(Mr.C.B.)は、顕彰馬に選定され、表彰されました。)

グッドルッキングホース・ミスターシービーは、2000年(平成12年)から、功労馬として、千葉県・成田市・本城の、千明牧場・三里塚分場で余生を送り、かつての競走馬時代の活躍を想い出しては、パカッ、パカッ、パカッと、走ったり、種牡馬として繋養生活を送った時の様子を振り返っては過ごしていました。

その後・グッドルッキングホース・ミスターシービーは、2000年9月に蹄葉炎を発症し、一旦は回復したものの、11月に再度・蹄葉炎を発症、12月には容体が急変したとの事です。


遂に、グッドルッキングホース・ミスターシービーは、2000年(平成12年)12月15日・朝7時15分・蹄葉炎による衰弱の為、千葉県・成田市・本城の、千明牧場・三里塚分場で、牡・20歳(人間に例えれば、60~70歳代ぐらい。)で死去したとの事です。

その後・2000年12月20日に、千明牧場・社台ファーム・レックススタッド・岡本牧場・浦河町民の合同葬として、葬儀・告別式が行われ、多くの競馬ファンが集まり、19年ぶりに三冠を達成したり、天皇賞・秋で四冠を達成し完全復活を果たした馬で、荼毘に付された、グッドルッキングホース・ミスターシービーの冥福を祈っては、別れを惜しんでいました。

15戦8勝の成績を残しながら、次世代の三冠馬・シンボリルドルフを倒せないまま、現役を引退し、種牡馬としても活躍した、ミスターシービー(Mr.C.B.)

今は、天国に召されて眠っている、グッドルッキングホース・ミスターシービーの冥福をさらに祈りたいと想い、願っている。

Mr.C.B.「ヒヒヒヒヒヒヒ~ン!」



馬名・Mr.C.B. ミスターシービー(Ⅱ世)

由来・イギリス語で、千明牧場で生まれた男馬という意味、千明牧場を代表する馬になってほしいという願いが込められていることから、当時の、読売巨人軍の選手・長島茂雄(現・終身名誉監督)さんが、ミスター(Mr)の称号を送った事からこの名前になった。

品種・サラブレッド

血統名・シービークインの一

父・トウショウボーイ(TOSHO BOY) 母・シービークイン(C.B.QUEEN)

毛色・黒鹿毛

性別・牡

生年月日・1980年4月7日

生産者・岡本牧場(北海道・浦河郡・浦河町・但し、千明牧場の名義で生産。)

馬主・株式会社 丸沼温泉ホテル(現・株式会社 丸沼)

現役当時・美浦 松山康久厩舎・所属

主戦騎手・吉永 正人(調教師として活躍中の2006年9月11日・胃がんの為死去・享年 64歳)

競走馬として活躍した期間・1982年11月6日~1985年4月29日

通算成績・15戦8勝

1983年(昭和58年)・優駿賞・年度代表馬 最優秀父内国産馬

1984年(昭和59年)・最優秀父内国産馬

1985年(昭和60年)10月6日・東京競馬場で引退式。

種牡馬・1986年(昭和61年)~1999年(平成11年)・秋

繋養先・社台ファーム・早来牧場(現・社台スタリオンステーション・早来)→レックススタッド(1991(平成3年)~1999年(平成11年)・秋)→千明牧場・三里塚分場(2000(平成12年)1月~12月)

1986年(昭和61年)2月・顕彰馬に選定される。

2000年(平成12年)12月15日・蹄葉炎による衰弱の為、千明牧場・三里塚分場で死去(享年・牡・20歳(人間に例えれば、60~70歳前後) )

(終)


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