「あのな、お前が言っているマイは病気なんだよ。病気。」
「もしかして、君はマイさんが昨日言っていた妹さんですか?」
「違うよ、バカ。マイに妹なんかいねぇよ。」
「でも、昨日、たしかに妹の話をしていたんだけど・・・。」
彼女は何かを迷っているようだった。底なしに暗い湖の水面を見るような目で僕を見た。それは、さっきまでの攻撃的な彼女とはあまりに違った。
「“解離性同一性障害”って分かるか?」
「カイリセイ・・・ドウイツセイ・・・ショウガイ・・・・。」
「分かんねぇよな。じゃあ、“多重人格”なら分かるか?」
「ビリー・ミリガンのやつ?」
「まあ、そうだな、それだ。厳密には、そのふたつは同じもんじゃないけど、まあ似たようなもんだ。マイは、その“多重人格”という病気なんだよ。病人なんだよ。だから、マイに変な気を起こすんじゃねぇぞ。」
彼女は、壁に刺さっている果物ナイフと包丁を目で追いながら言った。
「あの・・・もしかして、君は・・・そのマイさんの・・・何て言ったらいいのか・・・つまり、多重人格だから・・・。」
「そうだ。別人格だよ。マイにとって都合の悪いものを受け持ったり、処理したりする人格部分だよ。多分、マイはこの部屋で眠ったんだよ。眠ると、あいつはいつも同じ夢を見る。小さな頃から毎日見てしまうどうしようもなく嫌な夢をね。夢から覚めると、入れ替わるんだよ。その夢の後、目を覚ますのは、わたしなんだよ。」
「目覚めたら、知らない部屋に来ていたと・・・。」
「まあ、そういうことだ。起きてみたら、本とCDが少しあるだけの殺風景な部屋でびっくりしたぜ。この部屋の住人・・・お前がいなかったから、そのまま帰ろうかと思ったけど、どんなツラした奴が鼻の下伸ばして帰ってくるか見てみたくなった。少しばかり、痛みつけてやろうと思って、ナイフと包丁を研いで待ってたんだよ。そこにお前がのこのこ帰ってきたというわけさ。災難だったな。悪く思うなよ。」
彼女の話している内容は分かるけど、きちんと理解するのはいささか困難だ。目の前にいる女性の姿は、僕にとって、今朝までのマイさんそのものだった。だけど、どうやら彼女はマイさんじゃないらしい。マイさんの姿かたちをした女性が、自分はマイさんじゃないと言う。マイさんは病気・・・カイリセイなんとかという多重人格のような病気で、この女性は、マイさんの別人格だと。こんなことって、本当にあるのだろうか。いや、あるにはあるにちがいない。だって、目の前にいるマイさんと思われる女性は、今朝まで一緒にいたマイさんとは、どう考えても別人だ。演技でないことは、鈍感な僕でも分かる。第一、演技をする必要性はない。
「あの信じてないわけじゃないんだけど、と言うより、むしろ信じざるをえないと思っているくらいなんだけど、君がもしマイさんの別人格だとしたら、君にも君の名前があったりするのですか?」
「当たり前だよ、バーカ。何度も言うけど、わたしはマイじゃないっつうんだよ。わたしの名前は、ユカ。愉快な時間なんてこれっぽっちもない・・・苦しかったり、痛かったり、悲しかったり、怖かったりする時間だけを背負っているユカさんだよ。愉快のユカじゃなくて、不愉快のユカだよ。」
「ユカさんか・・・はじめまして、ユカさん。」
「うっせぇよ、バーか。お前となんか、金輪際会わねぇよ。いいか、マイに変なことするんじゃねぇぞ。て言うか、もうマイとは会うんじゃねぇぞ。言っとくけど、マイとヤるのは無理だからな。マイがこんな病気になったのは、小さな頃の地獄のような虐待が原因なんだ。獣のような奴らに受けた性的な虐待もあった。だから、マイにとって、セックスは病気の核に触れてしまいようなもんなんだ。ヤろうとした瞬間にマイは、わたしに入れ替わってしまうのさ。目が覚めたときに目の前にニタニタしたお前がいたら、間違いなく半殺しにするよ。本気だぜ。昨日の男もそうだよ。どこでどうやって、あんな不細工な男を拾ってきたのか知らないけど、とりあえず血祭りにあげてやった。」
「そんなこと、これっぽっちも考えてなかった。本当です。」
「嘘こけ!かっこつけるな、インポ野郎!」
それにしても、言葉遣いの悪い女性だ。綿菓子のようなしゃべり方をするマイさんと、ひとつの身体を共有しているとは思えない。病気と言えども、理解に苦しむな。
「あの、ひとつ聞きたいんだけど、多重人格であることをマイさんは知っているの?」
「マイは知らねぇよ。マイは、自分のことを“身体が弱いから一日中寝て過ごすしかない”と思っているみたいだけど、本当に壊れているのは身体じゃなくて心なんだよ。それに、多重人格だからと言って、誰かが生活費をくれるわけじゃねぇから、マイが生きていくためにわたしが夜、飲み屋で働いているんだよ。朝近くまでやっている店でラストまで働いているんだよ。だから、昼間は寝てばかりいるのさ。わたしが一晩中働くために、マイは一日中寝ているというわけさ。わたしはわたしで、大変なんだよ。」
「そうなんだね・・・ユカさんも大変そうだね。」
「うっせぇよ、バーか。お前なんかに同情されたくねぇよ。いいか、もうマイのことは忘れろ。もう会うな。会ってもヤれないんだから、他の女のところにとっと行けや。」
そう言うと、彼女はマイさんが持ってきた小さなバッグを手に取り、玄関に向かった。
「いいか、もう会うな。ヤれない女と付き合っても面白くねぇぞ。だから、もう会うな。」
彼女は少々乱暴にドアを閉め、帰って行った。
マイとユカ、多重人格・・・あまりに不思議な出来事が嵐のように去って行った部屋と残された僕の心は、密度の薄いスポンジのように、そこにあるけど空虚の塊のようにフリーズしてしまった。
あれほど鳴いていた蝉は、違う国に行ってしまったかのように鳴くことをやめていた。それは、まるで昨日から続く不思議な一日の終わりと告げているようだった。