私はこれまでたくさんの精神世界、スピリチュアル、心の学びと呼ばれる世界にいそしみ人生の目的を追求してきました。
そしてその途上で「落ちていく」指導者の方を見てきました。
いっとき脚光を浴びる、いっときではなくても長年にわたり精神世界の学びを主導した方が落ちていってしまうのです。
それはなぜでしょうか?
目的です。
その人がどういう目的で覚醒したい、悟りを開きたい、真実を知りたいと思ったかが大切です。
その目的が嘘偽りなく「真実の追求、真実に目覚めること」にあるのか、あるいは「人生を楽にしたい、快適にしたい」にあるのかです。
このことを自分の心に厳しく問うことが大切です。
もし、その目的が「日々を快適にしたい」や、「ちやほやされたい、名声が欲しい」、「お金欲しい」、「苦しい人生を楽にしたい」「病気を治したい」にあるのであれば、その人が有名になって生活も楽になった時点でその人の目的は達成されてしまうのです。
つまりその人は最初から「真実追求」を看板に商売をしていたことに他ならいからです。
少し覚醒する、光を見せられる、これを人々に上手に吹聴すればその覚醒した人には多くの人々が群がってくるでしょう。
そうなった時点が大きな曲がりかどとなります。
人生を快適にしたかっただけの人は、沢山の人々に群がられた時点で欲望に落ちていってしまうのです。
しかし、嘘偽りなく真実追求を目的に歩いてきた人は、欲望に溺れることなくひたすら光の道を歩き続けて行くのです。
真実と欲望とはまったく合わないからです。
真実は既に「あるもの」であり、欲望は「得たいもの」なのです。
心の世界を進むことは容易ではありません。
光か闇かを手探りで進んでいかなければならないからです。
欲望を隠して歩み続けた道は、どんなに人々から崇められ慕われ裕福な生活を送ることができたとしても、どんなに人格的に良い人だったとしてもその道は落ちていく道ということです。
しかし、真実追求のみを目的として歩いてきた方は、たとえ誰がついてこなくてもその道は光の世界、魂の源へと通じている道と言えるでしょう。
その人の心は、たとえ一人であっても、静かで温かく愛、喜び、光に包まれているでしょう。
真の光の道を歩いていけば、何が光で何が闇かを感じていけるようになり、さらなる光の世界、愛、喜び、光あふれる次元へ帰っていくのだと思います。
しかし、そのような人は少ないです。
ほとんどの人は最初は真摯な気持ちで真実究明の道を歩き始めても、少しの光が見え始めれば欲望に落ちていってしまいます。
それは、本当は真実を極めたかったのではなく、欲に溺れたい動機を隠して歩き続けてきた結果が正直に現象化されているに他ならないと言えるでしょう。
欲に落ちていても悟ったふり、覚醒したふりをして今日も有料で道を説いている指導者は多いです。
道を求める人、極めたいと思う人はこのような意味でも、自身の目的、動機が何であるかを厳しく精査しないといけないと思います。
似た者は引き合いますので人のせいにはできないからです。
迷った時は自然にならうのが良いと思います。
自然に欲望はなく、ただ生かされ、育まれていることを静かに温かく喜んでいます。
このような存在こそが本当に波動の高い存在だと言えるのだと思います。