令和三年沖縄御遺骨収容 | 日本国民まさやのブログ

日本国民まさやのブログ

ブログの説明を入力します。

今年は武漢ウィルスの猛威により、緊急事態宣言が発せられる中での御遺骨収容なので、感染対策をしながらの沖縄入りとなった🎵

誠の会から豊島<東志会>竹林<個>三田<個>の三名が参加した🎵

今年もめんそ~れの看板があってホッとした🎵

沖縄入り初日
沖縄入りのご報告、病魔退散、疫病退散祈願、安全祈願に沖縄県護国神社参拝
それから先着していた先輩方にご挨拶して、大先輩の部屋で泡盛を持ち寄り翌日の作戦会議🎵

いよいよ、集骨作業当日🎵
前日まで雨の沖縄だったが当日はカラッと晴れ🎵
天も味方しているので、御遺骨を見つけて差し上げられるのでは?と期待を抱きつつ現場に向かう🎵
集合場所は八重瀬公園🎵
ここは戦時中、野戦病院があった所。第二高等女学校の女学生<通称白梅学徒隊>が従軍看護婦として尽力したという。
その壕から少し離れた所にあるガマ<洞窟>に十数名の御遺骨があるのでは?との情報。


不確かな情報でも可能性があるのならそこを探す🎵
見つからなければ、そこには居ない❗という確認作業も重要な事🎵
しかし、今回は天も味方🎵
必ず見つけて差し上げるんだ❗と強い気持ちで挑む🎵
さぁ🎵
掘れ🎵


硬い岩と粘土質の様な地盤に掘られたガマ。
入り口は狭く、年月の経過で天井や壁の粘土質の土砂が崩落…本当に危ないから絶対に奥には行かない様に❗と注意🎵
しかも、狭いガマの中で崩落した土砂を2メートル程取り除かなければ?と予測…
ふぅ~🎵さぁ🎵掘れ🎵


バールやスコップで砕きながら少しずつ少しずつ…
大人数で入れないので、2組に別れて交代交代で作業を進める❗


ご飯休憩を挟み制限時間一杯まで掘る❗


しかし…そこに…御遺骨は…
残念ながらその場所で御遺骨を見つけて差し上げる事が出来なかった…
それでも、先に述べた様に確認する事も大事。
次に進み一柱でも多くの御遺骨を家族、帰るべき場所へお帰り頂く❗
来年も必ず参加する。


ホテルに戻り、シャワーでさっぱりしてから直会🎵
それから部屋に戻り、少人数で反省会…
部屋は禁煙です…

ここで決議がありました🎵
御遺骨収容の事や様々な事を沖縄県民に訴えるのも重要な事ではないか🎵
と誰かが言い出したので、それぞれに知恵を出し色々な取り組みをして行きましょう🎵
という事になった🎵

では、そろそろ寝ましょう🎵となり、部屋出ると❗
ここは風呂場か?と見紛う程、見事な全裸の男が…
鍵がかかって部屋に戻れなくなったみたい🎵
ホテルのアルアルで良く聞くが、本当にこんな事ってあるんだな…
詳細はその内に何処かで🎵

沖縄滞在最終日
あの夜中の全裸男は何処へやら🎵
朝食の後、少しのんびりして🎵
海軍壕を拝観
太田中将が送った例の電報と日本軍人の誇り高き意識に胸を熱くする
次は、慶良間チージ<シュガーローフ>。
着いたけど…碑も何も見当たらず…
次は、前田高知。
資料館…月曜日休館日…
まぁ🎵こんなもんでしょう🎵
沖縄戦のほんの一端だけでしたが、肌で触れ勉強させて頂きました。
沖縄出立の御報告と来年はもっと頑張る❗をお誓い申し上げに沖縄県護国神社参拝
またもや、後ろ髪引かれる思いで飛行機は飛び立ち、帰京🎵


今回参加された皆さん、段取りしてくださる桜街道の皆さんに感謝申し上げます。

年々、御遺骨の数や見つけられる事そのものが減ってきている。
これが、御遺骨収容に携わる全国有志の努力の結果であれば<もちろん我々だけでなく様々な団体個人が行っている>成果として良いのであろうが、決してそればかりでは無い❗
今回においても、そこに居る可能性が高いのに、年月の経過によって天井や壁の崩落により、見つけて差し上げる事が出来なかったのかも知れない❗
こんな事例は沢山あるのではないだろうか?
見つけやすい場所では集骨されたが、見つけ難い場所ではまだまだ沢山の御遺骨が、早く帰りたい❗と待っているのだ。
もっと早く、もっと沢山で❗
もちろん国、行政が本気になって主導的立場で行わなければならない。
時が経てば経つ程に見つけて差し上げる事が困難になって来る❗
既に七十年以上経過しているのだ。
一人でも多くの人が参加し、一刻も早く❗
御遺骨収容に限らず、今、自分が出来る事、やるべき事、それぞれに順序づけもあるだろうし、容易い事ではないが、やらなければならない事を一つ一つやっていこう🎵 

昨年の古稀のお祝いに続き、今年は還暦のお二方のお祝いがあった🎵


                                                                     三田勝男記者