住まいのすぐ近くに
花屋さんがある。
花屋の、おとうさんは88歳。
70年間、花屋を営んできたその
ぐっと前に曲がりきった背中。
その
慣れた手つきで、花を選んでくれる。
ある時ふと、花屋の、おとうさんの
方言に懐かしさを感じ、
「おとうさん、北陸出身?」
と聞いた。
マスクの上から目を丸くして
「あんたあ⤴︎ ようわかるう⤵︎きゃあ⤴︎」
「おとうさん、私の亡くなった
父が能登やったから、わかりますよ〜
おとうさんはどこから、来はったんですか?」
「おりは、北海道 稚内やあ⤴︎」
あ!稚内も北陸と似たイントネーションなんだ!✨と胸の内側から込み上げて、花屋のおとうさんとの話しに「花」が咲いた
「ほんでえなあ〜 15の時に奉公で
大阪に来たときはあ、右も左もわからんでえ、苦労したでなあ〜、、今でもねええ⤵︎
忘れられんのが、
戦時中やから、あちらこちらに
焼夷弾で死んだ人の亡骸を、埋めるとこがないから、今の大阪の駅の裏やら、中百舌鳥やらに みんな埋めて その上に
フェニックスの葉を置いとってな、
そのフェニックスの葉が、木になって、
今の建物の2階くらいまで
伸びてた あの光景は忘れられんな、
あんたあ フェニックスの葉
知っとるきゃあ?…
ほんでもなあ、いーちばん辛かったのは、
とにかく、食べ物がなくてええ、
食うもんは、ほれ、今でゆうたら、
犬や猫の餌 あれがワシらの
食うもんやったあよ
稚内にいるときも B29が来たら
防空壕に走りよった
稚内… あんなに北の果ても走りまくった
んだ。。
15で、奉公に出るのが当たり前の時代。
父も、15で、能登から神戸の港に奉公に出た。20歳で1年弱だけだが海軍の船で
戦地に赴いた。
この時代を生きた方々が、
今のこのマスクに覆われた時代を
どのように見て感じているのか
それは聞かなかったが、
ただただ、花屋のおとうさんは、
毎日毎日、休みなく花を売っている。
目の前のことを
ただただ黙々と 営んでいる。
そんな、おとうさんの花屋に
通いながら、私も
ただただ黙々と、お客さんの
ケアをし、より丁寧に生きよと
教えられてる気がする。
35年くらい エステの仕事をしてきて、
ボディ、フェイシャル、脱毛、
全てつながりがあると感じる
気がついたら、100%、お客様からの
紹介で成り立っている。
まわりに流されず、低価格で、踏ん張ってきたのも まあ、よう頑張ったと
言ってあげたい 己に。
戦争を知らない人は
戦争を語るな とある、戦争体験者が
おっしゃっていた。
たしかにそうだ。
何がわかるというのか。
ただ、聞いて聞いて想像をしろ
知らないのに、語るなだ
エステの仕事をただただ
黙々とするのだ あとどのくらいか
わからないけれど
そろそろ セーブもしながらでは
あるが。
フェニックスの木があった地の下で
埋葬されていた
戦死者の方々の 地に
一輪の花と祈りを捧げる事が
自分にできる ことだろうな
そして やがてくる寿命まで
生ききることが
最大の、供養であると信じて




