孔子の言葉
「五十にして易を学べば大過なかるべし」
この言葉にぐっとくる。
若かりし時に学ぶ思考と
歳をとりにて学ぶる思考は
味わいがまた違い
50も半ばを過ぎて、目前に
還暦が見えはじめているならば
こその
天地の理 なるものを
焦らずに体得できていけそうだ
ゴールは特に必要ない
本書にも書かれているが
例えば、芥川や三島が「易」を
学んでいたならば
ああいう最期にはならなかったような
気もする(「陰陽二元論思想」においては「完全なる絶望」など無いからである…)
なるほど、、、
もちろん、芥川、三島氏の
最期を否定するのではない。
私からすれば、畏敬の念しかない
なれど
これからじっくり易経という
著作を読んでいくにあたり、
なるほど、他に読む本の中に
易の思想が欠けていないか…
と斜めに見ながらも
読書することにより、著者と
向き合いながらの読書ができそうで
楽しみでたまらない。
ちなみにこの本は
逆モノサシ講の、選定本として
送っていただいた、
有難い一冊だ。
それにしてもだ、
こういう表現をすると誤解を
招くかもしれないけれど
いつもいつも選定本として
送ってくださる本が
自分の本棚にある本の中で、
かなり上位な位置占める大事な
本ばかりであるのが凄い
気概を持って
生きていく上で、足りないものは
補い、無用なものは
捨て去る。
捨て去らねば
入る場所がない
私たちは
古事記や日本書記
易経など
こいゆう古来からの
文献を血肉にしてきたのが
途切れている
ある意味、気持ちは「貴族」で
あらねばならない。
貴族は、私は○○伯爵の血をひく
人間であるから、このようなものには
迎合できない!というプライドが
ある。
貴族でないと、大衆となってしまう。
大衆は、みなと迎合し、群れる。
この令和の時代には
大衆になってはいけないと思う
迎合しないで
考えていくのが
令和時代だ



