野球の野村克也元監督が
「勝ちに不思議の勝ち有り、負けに不思議の負け無し」
と言つてたと思ふが、
この国の子供たちの現状を見れば、答へは完全に「負け」であり、それはその答へを導き出す公式である「教育」が完全に誤りだといふことである。
公式が間違つてゐても答へが当たつてゐることはあるかも知れないが、答へが「間違ひ」なら、その公式も絶対に「間違ひ」なのである。
良識的な親御さんから見れば、このやうな教育を主導してゐるといはれる「日教組」は消えてなくつて当たり前であらうが、それが無くならない。無くならないどころか、何故か益々この「間違ひ」の公式を更に進めやうとするし、現在そのとおり進行中である。日教組だけでなく無能な政治家、マスコミ、学者もそれを煽る始末である。
...何故、この日教組が無くならない、反省しない、方法を変えない・・・何かに護られてゐるのでせう。無能な政治家もマスコミも学者もそれを批判しなゐ。
国の教育とは何の為にあるのかと思ふと、それは国の最高規範である「憲法」の精神、思想を国民に広く敷衍するためであらうから、「間違ひ」の公式を作り出す「憲法」も、少なくとも我々日本人には「間違ひ」であるといふことである。
「国民主権」「個人主義」「基本的人権」「(男女)平等主義」「平和主義」・・・そしてそれに通底する「自虐史観」などの妄想、「戦勝国の悪意」と「共産思想」、これに日教組は護られてる。
言ひ換へれば
日教組は占領憲法の優等生、朝日新聞もほかの多くのマスコミも優等生、左翼政治家も優等生、「少年法の改正」に異議を唱へる日弁連も優等生。
これらの優等生が本当は「不良学生」であるといふ事を堂々と言へる環境を何故作らうとしないのか?
事態は急を要する。少年法を改正しても、多少の抑止力にはなつても、今後ますます可哀想な現在の教育の被害者である子供達が増えていくのは目に見えてる。被害者の少年は勿論として、犯人の少年だつて少しは現在の教育の犠牲者と言へるかもしれない。そしてこの教育で育てられた子供達が親になつていく。
この先の答へは既に見えてるぢやないか。このままでは怖くて、若い男女は子供を産むのも躊躇うやうになる。
経済よりなにより、「教育の再生」こそ急務である。で、それをするには何よりも「占領憲法の否定」をしなければ始まらないと思ふ。
「臭い匂いは元から経たなきやダメ」なのだ。元の元を「否定」しやうと何故しないのか?不思議でならないし、子供達が本当に可哀想である。
【過ちては即ち改むるに憚ること勿れ】
「間違つた方法と分かつてゐて、その間違つた答へを嫌になるくらい見せられても、さらにそれを進めやうとするこの国は、この事件の犯人の少年以上に『基地外』ぢやないのか?」と思ふ。