顔。

食べる、見る、話す、聞く。
体の器官として存在しているだけではなく。

顔。
美醜を決められ
性格まで決められてしまう偏見の材料。

顔。
機能として留めておけたらどんなに楽か。

顔。
評価の対象から外れることができたらどんなに楽か。


私たちが普段、何の気なしに見ている顔。
この顔というものは、
コミュニケ―ションにおいて、
とても大きな役割を担っています。

見たり見られたり。
話したり、食べたり、聞いたり。
ただの情報のやり取りの道具にすぎないにも関わらず、
自らや相手の顔によって感情が揺れ動かされることが多々あります。

例えば、
話している相手の表情から、この話は問題なく進められているなどと安心感を得たり、
疲れ果てた自分の顔を鏡で見て、今日は一日やり過ごせそうにないと思ったり。

顔は情報伝達の道具としてだけではなく、
まさに情報そのものとしてそこにあるのです。

そして、情報としてそこにある以上、
私たちは生まれてからこの方集めてきた記憶という名の莫大なデータによって、
何かしら解釈をし、何かしらの行動を取ります。

人間が人間である限り、
この構造を否定し、
新たに別の構造を作ることは
誰にもできないとゆっても過言ではないでしょう。

ただ、
この件に関して、私にはいつも気になっていることがあります。
それは、
その解釈に基づく行動を期待して、相手に背負わせてないだろうか?
ということです。

顔が美しければ何でもできそう、であったり
目鼻立ちがくっきりしていればはっきり意見を言いそう、であったり。

あまり相関関係がないことまで、
私たちは想像してしまうのではないでしょうか?

そして、
その予想が当たれば、
ほら、やっぱり!と満足感をえたり、
予想が異なれば、
ああ、なんだか思ってたのと違うな、と落胆したり。

それが見えて、
相手は
期待通りに動こうとしたりすることがあるんじゃないか、と
思う日があります。

というのも、私自身がそのような経験があり。
(おそらく誰にでもあることなのだと思うのですが…。)

私自身、ハーフなので、
似たような顔のタレントの真似をして、
いわゆる、おちゃらけぶっちゃけキャラを演じていた時代があります。

でも、実際は
根暗で、
大きな問題もなくお気楽に暮らしてきたというよりかは
いつも何かの問題に悩んでいます。
にぎやかな場所より、静かな場所のほうが好きですし、
大勢で遊びに行くより、一人、公園で日向ぼっこをしているほうが好き。
本当は人の機微を感じ取るし、なるべく平和に暮らしたい。

それでも期待通りに
厚顔無恥な自分ではない誰かを演じることで
みんなが喜んで笑って楽しんでくれていることが嬉しくて、
そのタレントさんもこうやって求められている誰かを演じているのかな?などと思いをはせつつ、
何とか何とかやっていました。

しかし、
30歳くらいになって、
私、何してるんだろう、と。
わざと心をざわつかせて、
いったいこれは何になるんだろうと。
いったい何が私の手元に残るんだろうと思い始めたのです。

きっかけがあったかと言われたら
あったような、なかったような。
じわじわと、
望んでいるものはこれじゃないのに、
もうさすがに疲れてきたかも…
と思っているところに、
期待通りでも期待外れでも
変わらず愛してくれる旦那さんとの出会いがあって、
存在を認められたような、
あ、もう演じなくてよいのだ、と安心感を得始め、
ようやく、
もう自分の思った感覚をそのまま表に出すのみ、と思えるようになりました。

とはいいつつ、
今も相手の期待に添いたいな、
相手の期待に沿った反応をしたいな、と思う日が多いのですが、
もう少し、自分の感覚の範囲内で行えるようになってきた気がします。

このようなことは私だけでなく、
いろんな人が体験していることだと思います。
そして、それに悩んでいる人も多いと思います。

顔の話だけでなく、人種や宗教、性別。
そういうもので期待されることが多すぎる。

顔などによって何かを期待されようが
自分は自分でしか、あり得ません。

自分を大きく見せることも、小さく見せることもできません。

ただ、自分は自分であるのみで、
自分にできることを無理のない範囲で行っていくのみなのです。


いつも何かを期待したり、期待されたり。
いつも何かを評価したり、評価されたり。

人間の業で、
それを避けることはなかなか難しいですが、
私たちが唯一できることは、
やりたいことをやれるようにやって、
自分が相手に期待したことや、
相手が自分に期待していることを
あまり気にしないことなのかもしれませんね。

期待も解釈もそれ自身は悪いことではありません。
ただ、相手や自分に何か負担を与える可能性があるということを、

重たすぎれば、受け流していいものだということを

少し心にとどめておくことも一つの手段なのかもしれません。





先週から今週は、

中秋の名月からの台風でしたが、

みなさまいかがお過ごしでしょうか?

 

私はというと、

季節の変わり目で

体調がどうも優れず。

気持ちも鬱々。

周りのサポートのおかげで

先週末あたりから徐々に慣れ始めはしたものの、

年々、この「季節の変わり目」というものへの耐性がなくなっていることを痛感。

そろそろ自分の体を大切にするための特別な何か、を始めなければなぁ・・・

なんて思い始めた2週間でありました。

 

 

そんなこんなで一週あいてしまったのですが

今回も

先週から今週にかけて観た作品と

その感想を徒然に書き記しますので、

よろしければお付き合いください。

 

今回の作品はこの2つ。

 

◆ラチェッド

https://www.netflix.com/jp/title/80213445

 

 

有名な映画、「カッコーの巣の上で」に登場するラチェッドが

どのように精神病院で働き始めたかを描いた前日譚。

(でも多分、「カッコーの巣の上で」とは別物と認識したほうが良いです。)

ラチェッド含め、院内関係者が起こす複数の殺人。

上品で冷酷な彼女は賢く立ち回り、初志貫徹、

すべて自分の思うがままにすると思いきや…

 

◆The Sinner ジェイミー編

https://www.netflix.com/jp/title/80175802

 

 

善良な高校教師ジェイミーが

大学時代の同級生の訪問、

とある事件をきっかけに、

必死に伏せてきた孤独感・虚無感をさらに募らせ、

徐々に平穏な日常を失っていく様を

彼に寄り添ってしまう一人の刑事の姿と共に描いた作品。

 

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まず、ラチェットについて

 

この作品、映像、配色がとてもきれいだなと思いました。

ヒッチコック作品やシャイニングとかを彷彿とさせるシーンが多くて、

鮮やかな色がバランスよく多用されていました。

(なんというかエナメル色、といったら良いのかな。艶やかな色の組み合わせでした)

 

後々調べると、

制作陣に『アメリカン・ホラー・ストーリー』のライアン・マーフィーがいるそうで。

納得納得。

アメリカンホラーストーリーはレディガガが出てたシーズンしかまともに見ていないけれども

かなり毛色が近い作品のように思います。

 

でも、ちょっと残念だったこともあって。

途中、ラチェッドの心境変化があり、

大きく彼女の描かれ方が変わる瞬間があるんですが、

あまりにも切り替わりが急すぎて、ついていけなかったです…。

もっと、こう心境が溶けていく様とか演技だけじゃなくて脚本でも見たかった…。

でも、人のこと見るときって大体そうなるのかな・・・

特にラチェッドとか思いを心中に秘める人は、

傍からはその変化に気づきにくいというか、そういう感じなのかな…。

状況によって、

ベースの性格に対しての光の当たり方が変わってしまうというか

そういうことなのかなー。。

 

…なんて、そんなことを思った作品でした。

 

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次に the sinner 。

 

これ、私は個人的にはとっても好きな作品でした。

要所要所でニーチェなどをちりばめながら

誰もが抱える人の暗い部分の描写が、本当に秀逸。

人が肉を食べることについても、

加工して、死を見えないようにしているだけで、

本当は誰もが簡単に残酷なことをしているじゃないか、

なぜ現実を直視しないんだ?といったくだりなど

ジェイミーが言っていることのほとんどにシンパシーを感じざるを得ませんでした。

おそらく、ジェイミーは、

現実を見ようとして、よく見た結果、

何かを掴んでいるようで、

逆に何をとっても何を触っても、

感覚がないと思います。

本当にここにあるのか?

すべて夢の中ではないのか?

人はいるのか?

自分はあるのか?


なにも感覚がないから、なんとか感覚を得ようと、

一般的に幸せ、善といわれるものにすがるも、

全くその隙間は埋まらない。

そもそも善悪とはなんなのか、

すべては運でしかないのではないか、

だとすれば、人生に一体なんの意味があるのか。

そんな空虚を埋めようと

さらに現実を見ようとすればするほど、

ますます実感も実態も無くなってゆき、

結局は最大の刺激=死というものに向き合わざるを得ないジェイミー。

でもこれはなんら特別な感覚ではなくて、

生きるからには持たざるを得ない孤独感だと思うのです。

サスペンスとして片づけるにはもったいない作品でした。

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さて、今回私がこの2つの作品を見て

思ったことは、

悪は純粋な悪としては存在せず、

誰もが抱える

孤独感、空虚感、

もしくは、

正義感や思いやりによって行われるというもの。

 

確かに、人間の悪事って、

基本的には、面白おかしくって犯すことではないことのほうが多い気がして。

(一部猟奇的なものもあるとは思いますが・・・)

誰もが抱える孤独や空虚感から逃げるため、

それら孤独や空虚感は大したことではないと示すため、

大事な誰かを大事にしていると示すため、

後悔していることについて、どうにか挽回するため。。。などなど

動機としては、普通の人が普通の行動するときと同じようなもののほうが

きっと多いんでしょうね。

 

それが悪になってしまうのか、善とされるのか、って。

誰がどう判断するんでしょうね。

善悪って、本当に場面的というか。

状況によって、それが良いとか悪いとかになってしまいますよね。

(状況も、その時なのか、そのあとなのかとかでも見方変わっちゃいますし・・・)


本当に信仰でしかないというか。

これを私は善と信じる

これを私は悪と信じる、ということしか人間には出来ないんでしょうね。

信じるための材料って、

多分、これまでの経験からの推測とか願望とかになってくるんでしょうが。。。

 

そして、さらに踏み込んでいえば、

善悪の判断だけにとどまらず、

本当に人って不確定な生き物ですよね。

周りの何をとっても不確定なことしかないのです。

絶対的なものがあったとして、

それはあなたがそう信じているだけ、

の可能性が非常に高い。

だから、ごまかしながらしか暮らせないというか。

すべて幻というか。


夢の中で出てきたテーブルを触る夢の中にいる自分と

現実世界にあるとされるテーブルを触る自分を

果たして人は区別できるのか。

現実だと思っている今は長い夢だったりして。


今、手に取っていると思っているものが本当ではない可能性を

いったい誰が否定できるのかという問いが

いつも私を悩ませます。

 

・・・と書いていて、すこし心もとなくなってきましたが、

だとすれば、一つさらに踏み込んで、私たちはどう生きればよいのか。


この問いに私は閉口せざるをおえません。

誰かにその問いについて尋ねれば、

幻ながら楽しもうという回答のほうが多いような気もするのですが、

これが幻であるということに蓋をし続ければ、

いつかどこかで、

ジェイミーのように

その無視し続けた暗闇が巨大な雲になって飲み込まれそうな気がするからです。

かといって、直視しても飲み込まれる。
うーん、本当に難しい。

 

深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ、とはよく言ったものです。

深淵があるのであれば、水面もあるし、

そこに映る何かがあるだろうに。

なんでか深淵っていつもブランクだな。


実はこの問い、

大学生のころからずっと考えていて、

いまだに腑に落ちる答えが手に入れられていません。

もうずっと考えるより他ないんでしょうね。

 

抽象的に考えるから、答えが出なくて、

もっと具体的に考えたら、

その都度、問答ができて、

別にそれが幻かどうかなんて議論しなくても済むのかもしれません。

 


そんなことを考えながら、今回のブログを終わりにしようと思います。

今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!

 

 

心地よい季節になってきましたが、

皆様いかがお過ごしでしょうか?

すこし肌寒くなってきたところ、

2020年は秋めいてきましたね。

 

秋。

この秋という季節は、不思議なもので、

本でも、映画でも、なんだってそうなのですが、

私が何かに触れるとき、

触れたものの輪郭が、どこか、

ほかの季節よりもきちんとした形を持っていて、

そのくせ心にしみわたってくるような印象があります。

冷たい水が最初は冷たいけれども次第に

体の中にしみわたっていくような感覚というと

イメージしてもらいやすいでしょうか?

毎年、そんな感覚を覚える季節であります。

 

そして、毎年、何かを始めるのですが、

秋中でやめてしまうことがほとんど。

今年もかなり遅めの一念発起をして、

今日から私は、見て、聞いて、思うことを

つらつらとこのブログに書き連ねていこうと思った次第なのであります。

 

私の特性上、どうしても、

知識を集め、有益な形で提供するというよりかは、

触れて感じたことをそのまま書くだけの内容になってしまうので、

みなさんのお目に触れる形で残してもよいものだろうかと

思う気持ちがあるのですが、

私はどうも自分の殻に閉じこもって、満足してしまうきらいがあり。

形にすらしてこなかった事柄があまりにも多すぎて、

これからは、その一瞬一瞬の思考を

ピンでとめておきたい気持ちと、

みなさんの、その思考に対する意見でもって、

自分のまだ見ぬ世界を見てみたい、

という完全なるわがままな気持ちとで、

ええい、儘よと手をうごかしております。

 

 

さて、自己弁護の前振りが長くなってしまいましたが、

第一回目は、

今週見たドラマや映画について、思ったことを書き連ねていこうと思います。

※一応思ったことなので、ネタバレも少しあると思うのですが、

 個人ごとにとらえ方違うので、ご容赦ください。

 

 

↓ラインナップはこちら↓

 

 

◆ハイバイ、ママ!

https://www.netflix.com/jp/title/81243996

 

不慮の事故で亡くなってしまった妊婦のユリが、

子供や夫、友人、家族を幽霊となって見守ること数年。

ご褒美なのか罰なのか、49日間だけ生き返り、

その限りある日々を描いた作品。

 

 

 

◆もう終わりにしよう

https://www.netflix.com/jp/title/80211559

 

 

彼と一緒に彼の実家を訪ねるお話なのですが、

原作はカナダの作家イアン・リードの「もう終わりにしよう。 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

監督は「マルコビッチの穴」や「エターナル・サンシャイン」の脚本を書いたチャーリー・カウフマン。

 

 

◆万引き家族

https://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/

 

 

ゆわずと知れた是枝監督の万引き家族。

万引きをしながら、家族ではない家族の、家族らしい日常を描いた作品。

 

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

 

◆ハイバイ、ママ!について

 

このドラマ、私は、どれだけ泣くのか、というくらい泣きました。

全体的にコメディタッチではあるのだけど、

不慮の事故で亡くなってしまった主人公のユリが

取り残された家族や友人を見守ったり、さまざまな出来事に奮闘する姿で

大事な人の死への向き合い方、思いやりというものを丁寧に描いた作品だと

私は思っています。

 

まず、大事な人の死と対峙する姿勢について。

私は今まで、大事な人の死について考えるとき、

嘆きや悲しみで心を埋めることしかできませんでした。

 

どこか常に自分が許せない、

あれもしてあげればよかった、これもしてあげればよかった。

どれだけ自分を責めても、悔いても、祈っても、

どうやったって、やりきれない絶望感と無力感だけが

私の手元に残されていたのです。

 

しかし、それは、自分の視点から見た自分への感情の爆発にすぎません。

大事な人の感情は視野に入っておらず、大事なその人に寄り添っていないのです。

 

それは当然の反応です。

だって、私は私なのですから、私の視点でまず物事を考えるのが妥当です。

そして、私から離れてしまえば、すべては予想の話になってしまいます。

(私の視点で考えた私も予想の範疇は出ていないのですが、

 この辺の話はややこしいので割愛します。)

 

ただ、私がしたくてできなかったこと、それについて考えたところで

その先が絶望や無力感、苦しみしかないのであれば、

大事な人がしてほしい本当のことは何か、それを考えたほうが良いことを

このドラマは教えてくれました。

 

大事な人が私に望むのは、

日々嘆き悲しみ、

写真の前で泣きくれる姿でしょうか?

大事な人は最初は一緒に泣いてくれます。

大事な人も自分の死なぞ望んでいないのですから。

一緒に泣きましょう、枯れるまで泣きましょう。

そうして二人寄り添って泣き明かすでしょう。

 

ただ、そのうち、その大事な人は思い始めるのです。

私がこの人を苦しめていると。

私のせいで、この人は苦しみ続けていると。

 

つまり、自分が後悔ばかりしていることは、

結果、大事なその人を苦しめることになるのです。

 

もちろん、こんなこと思えるのは、

私が、ひどく悲しい時期を過ごして久しいからでしょう。

最初のうちに、今、思っているようなことをほかのだれかに言われても、

絶対に撥ね退けていました。

あなたに私の苦しみの何がわかる、同じ体験をしてから言えと。

 

しかし、今なら、

かろうじて、本当にかろうじて、

悲しみを絶叫から灯火のようなものに変えることができるような気がします。

 

大事な人の死によって、

つらい思いをしている人は、ぜひ、一度。

その大事な人になったつもりで、自分のことを見てみてください。

その視点で、何か別の考えが浮かぶかもしれません。

 

 

次に、自分のことは置いておいて、相手のことを考えることについて。

 

このドラマの登場人物は誰もが、歯がゆいくらい、

自分のことは置いておいて、まず相手のことを考えます。

相手のことを思って、いろいろな隠し事をするので、

余計に事がややこしくなったりするのですが、

果たして明瞭にすればすべて良いのでしょうか?

 

生き返ったユリは、49日間のうちに、

自分がもといた居場所を取り戻せば、

完全に生き返ることができます。

しかしユリはなかなか、その居場所を取り戻そうとはしません。

ただ、すこし、ほんの少しだけでいいから、

自分が叶えられなかった娘を抱く、娘と遊ぶといったことを、体験したいと

娘が通う保育園の給食職員さんとして働き始めます。

 

私は、このユリの行動にとても親近感がわくのです。

 

居場所って、私としては、

はっきりとした私の区画、というよりは、

みんなと共同する場所、という意識があって、

どうしても、ここは私のですー!と主張する気にはなれないのです。

 

それよりかは、

攻撃などされない限り、

ああ、あなたはこうありたいのですね、そうですか。

私はこうありたいと思っていましてね。

競合してしまいますね、どうやら調整が必要そうです。

となると、私の本当の願いは、全体のうちのこれとこれだけでして、

そのほかは、どうぞ、譲れる部分ですので、どうぞ。

みんなが幸せそうにいるのを見ているのが、私の幸せでもありますし。どうぞ。

といった感じなのです。

 

まぁただ、この生き方、たまに超絶しんどい。

加減を少し間違うと、やせ我慢的になってしまって。

声が大きい人が多い世の中、時代にもあっていないですしね。

 

だけど、一つ。

私がいつも思っていることがあって、

それは、私がそうしたことによって影響を受ける人がいるということ。

私が何かしたことによって、何かができない人が発生してしまっている可能性があることをいつも気にかけている。

できる限り、私のとった行動で、誰かを傷つけるようなことのないようにしたいな、と。

ただし、私が委縮してしまうと、それに対して、不憫に思う人もいるし、それに付け込む人もいるだろうし。

本当に、難しいけれども、

譲る内容のバランスとりは、日々訓練するしかないんだろうなー。

何が正解だとかもわかんないですしね。

 

 

 

残り二つは体力なくなってきたので、簡単に書きますね。

 

 

◆もう終わりにしよう

 

この映画、おそらく、人生を受け入れるがテーマの映画だと思うのですが、

脚本がめちゃくちゃよくて、

基本的に詩集読んでいるような感覚で、物語が進んでいきます。

 

少しネタバレ的なところもあると思うんですが、

とても分かりやすいメタファーだったので、書いちゃいますが。。。

私は、この映画、自分の中のいろんな自分について書いている作品だと思っております。

 

自分の中に、人格作りますよね。

私も何枚かお面を持っています。

子供っぽいお面や、余所行き用のお面。

いろんなお面をつけながら、

その都度変わる自分になんて自分が確立されていないんだ、ああ、もういやになっちゃう、

本当の自分て何なのよ、ってなるんですが、

仏教の教えにある通り、すべて自分なのですね。

いろんなお面があるから、いろんな考え方があるし、

いろんなお面でもって、出来事を追体験することで、

物事を多角的にとらえられることもあるんだろうな。

でも大体、この出来事に対してはこのお面で考えるとか決まっていて、

よく固定されがちなんだけども。

なるべくいろんなお面で考えないとなーなんて思ったり。

いろんな種類のお面が同時に納得させられる解を見つけられると、

悟りというか、消化というか、受け入れられることができるんだな、と思った作品でした。

 

でも最後の5分はよくわからなかったです。

あれをどうとらえたらいいのか…

だれか教えてください。。。。

 

 

◆万引き家族

紹介文にも書きましたが、

家族じゃない寄せ集めの家族が、家族らしく暮らしている映画なのです。

見たいみたいと思って数年たってしまって、やっと見れました。

 

見終わった感想としては、

世間一般の正しいって本当に正しいのかな?というものです。

私はこの家族がしたことは、

確かに目先のことしか考えていない、

場当たり的な家族愛だとは思うのですが。

ただ、まったく責める気にならない。

 

お腹が空いている貧しい子が万引きしてしまうことを

一体誰が責められるのか。

虐待されている子を、連れ帰って可愛がることを

一体誰が責められるのか。

自分のところで愛情をたっぷり注ぐことができると分かっているから施設に入れなかったことは罪なのか。



大体が、大体がだよ。

世間一般の正しいって、普通の人にしか通用しないと思うわけ。

見てる世界が違いすぎて、

共通の正解なんてないだよね。

でもそれじゃ混とんとしちゃうから、ある程度広域をカバーできる正解=法律というものがあるんだろうけども。

だとしても、普通の人が普通に暮らしていて思う正解やその普通の正解寄りの法律と照らし合わせて

そこから逸れた人が、逸れたなりにいろいろやったことを

判定なんてできっこないじゃん。と思うのです。

心が汚れているわけではないのだったら、

ある程度、許しちゃどうかね、というのが私の結論で。

心が汚れているわけでないのなら、

その人がそうならないようにみんなができる何かはないのかな?と

考えたほうが良い気がして。

だって、その人たち責めたところで、

それ以上のもの生まれなくないですか?

責めた、罰した、それで終わりじゃないですか。

果たして、本当にその人たちだけが、負うべき責務かね?それ。

と思うのです。

普通の正解にこだわることができるのは、それは恵まれていた結果であって、

まず、そういう人を責める前に、

自分に関わってくれた全ての人に感謝してくださいと思います。

同時に、常にみんな正しいゾーンにいないとダメかな?とも思ったり。

正しくなくたって、心がきれいだったら、

目をつぶったり許しあったほうが、豊かなんじゃないだろうか。

(そんなこと言いながら、自分もできる自信ないけどね、でも許していきたいものだな。。。)

 

 

とまぁ、長々と書き連ねてきまして、

やっぱり自分の殻から抜けられていない文章にしか

なっていないような気もしつつ、

またみんなが言いつくしてきた内容を自分の口から言い直しただけな感しかないのですが。

今日はここまでとします。

 

こんなに長い文章読んでくださり、ありがとうございました。

また書きたい内容出てきましたら、書きたいと思います!

ではまた会う日までー!