心地よい季節になってきましたが、
皆様いかがお過ごしでしょうか?
すこし肌寒くなってきたところ、
2020年は秋めいてきましたね。
秋。
この秋という季節は、不思議なもので、
本でも、映画でも、なんだってそうなのですが、
私が何かに触れるとき、
触れたものの輪郭が、どこか、
ほかの季節よりもきちんとした形を持っていて、
そのくせ心にしみわたってくるような印象があります。
冷たい水が最初は冷たいけれども次第に
体の中にしみわたっていくような感覚というと
イメージしてもらいやすいでしょうか?
毎年、そんな感覚を覚える季節であります。
そして、毎年、何かを始めるのですが、
秋中でやめてしまうことがほとんど。
今年もかなり遅めの一念発起をして、
今日から私は、見て、聞いて、思うことを
つらつらとこのブログに書き連ねていこうと思った次第なのであります。
私の特性上、どうしても、
知識を集め、有益な形で提供するというよりかは、
触れて感じたことをそのまま書くだけの内容になってしまうので、
みなさんのお目に触れる形で残してもよいものだろうかと
思う気持ちがあるのですが、
私はどうも自分の殻に閉じこもって、満足してしまうきらいがあり。
形にすらしてこなかった事柄があまりにも多すぎて、
これからは、その一瞬一瞬の思考を
ピンでとめておきたい気持ちと、
みなさんの、その思考に対する意見でもって、
自分のまだ見ぬ世界を見てみたい、
という完全なるわがままな気持ちとで、
ええい、儘よと手をうごかしております。
さて、自己弁護の前振りが長くなってしまいましたが、
第一回目は、
今週見たドラマや映画について、思ったことを書き連ねていこうと思います。
※一応思ったことなので、ネタバレも少しあると思うのですが、
個人ごとにとらえ方違うので、ご容赦ください。
↓ラインナップはこちら↓
◆ハイバイ、ママ!
https://www.netflix.com/jp/title/81243996
不慮の事故で亡くなってしまった妊婦のユリが、
子供や夫、友人、家族を幽霊となって見守ること数年。
ご褒美なのか罰なのか、49日間だけ生き返り、
その限りある日々を描いた作品。
◆もう終わりにしよう
https://www.netflix.com/jp/title/80211559
彼と一緒に彼の実家を訪ねるお話なのですが、
原作はカナダの作家イアン・リードの「もう終わりにしよう。 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
」
監督は「マルコビッチの穴」や「エターナル・サンシャイン」の脚本を書いたチャーリー・カウフマン。
◆万引き家族
https://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/
ゆわずと知れた是枝監督の万引き家族。
万引きをしながら、家族ではない家族の、家族らしい日常を描いた作品。
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◆ハイバイ、ママ!について
このドラマ、私は、どれだけ泣くのか、というくらい泣きました。
全体的にコメディタッチではあるのだけど、
不慮の事故で亡くなってしまった主人公のユリが
取り残された家族や友人を見守ったり、さまざまな出来事に奮闘する姿で
大事な人の死への向き合い方、思いやりというものを丁寧に描いた作品だと
私は思っています。
まず、大事な人の死と対峙する姿勢について。
私は今まで、大事な人の死について考えるとき、
嘆きや悲しみで心を埋めることしかできませんでした。
どこか常に自分が許せない、
あれもしてあげればよかった、これもしてあげればよかった。
どれだけ自分を責めても、悔いても、祈っても、
どうやったって、やりきれない絶望感と無力感だけが
私の手元に残されていたのです。
しかし、それは、自分の視点から見た自分への感情の爆発にすぎません。
大事な人の感情は視野に入っておらず、大事なその人に寄り添っていないのです。
それは当然の反応です。
だって、私は私なのですから、私の視点でまず物事を考えるのが妥当です。
そして、私から離れてしまえば、すべては予想の話になってしまいます。
(私の視点で考えた私も予想の範疇は出ていないのですが、
この辺の話はややこしいので割愛します。)
ただ、私がしたくてできなかったこと、それについて考えたところで
その先が絶望や無力感、苦しみしかないのであれば、
大事な人がしてほしい本当のことは何か、それを考えたほうが良いことを
このドラマは教えてくれました。
大事な人が私に望むのは、
日々嘆き悲しみ、
写真の前で泣きくれる姿でしょうか?
大事な人は最初は一緒に泣いてくれます。
大事な人も自分の死なぞ望んでいないのですから。
一緒に泣きましょう、枯れるまで泣きましょう。
そうして二人寄り添って泣き明かすでしょう。
ただ、そのうち、その大事な人は思い始めるのです。
私がこの人を苦しめていると。
私のせいで、この人は苦しみ続けていると。
つまり、自分が後悔ばかりしていることは、
結果、大事なその人を苦しめることになるのです。
もちろん、こんなこと思えるのは、
私が、ひどく悲しい時期を過ごして久しいからでしょう。
最初のうちに、今、思っているようなことをほかのだれかに言われても、
絶対に撥ね退けていました。
あなたに私の苦しみの何がわかる、同じ体験をしてから言えと。
しかし、今なら、
かろうじて、本当にかろうじて、
悲しみを絶叫から灯火のようなものに変えることができるような気がします。
大事な人の死によって、
つらい思いをしている人は、ぜひ、一度。
その大事な人になったつもりで、自分のことを見てみてください。
その視点で、何か別の考えが浮かぶかもしれません。
次に、自分のことは置いておいて、相手のことを考えることについて。
このドラマの登場人物は誰もが、歯がゆいくらい、
自分のことは置いておいて、まず相手のことを考えます。
相手のことを思って、いろいろな隠し事をするので、
余計に事がややこしくなったりするのですが、
果たして明瞭にすればすべて良いのでしょうか?
生き返ったユリは、49日間のうちに、
自分がもといた居場所を取り戻せば、
完全に生き返ることができます。
しかしユリはなかなか、その居場所を取り戻そうとはしません。
ただ、すこし、ほんの少しだけでいいから、
自分が叶えられなかった娘を抱く、娘と遊ぶといったことを、体験したいと
娘が通う保育園の給食職員さんとして働き始めます。
私は、このユリの行動にとても親近感がわくのです。
居場所って、私としては、
はっきりとした私の区画、というよりは、
みんなと共同する場所、という意識があって、
どうしても、ここは私のですー!と主張する気にはなれないのです。
それよりかは、
攻撃などされない限り、
ああ、あなたはこうありたいのですね、そうですか。
私はこうありたいと思っていましてね。
競合してしまいますね、どうやら調整が必要そうです。
となると、私の本当の願いは、全体のうちのこれとこれだけでして、
そのほかは、どうぞ、譲れる部分ですので、どうぞ。
みんなが幸せそうにいるのを見ているのが、私の幸せでもありますし。どうぞ。
といった感じなのです。
まぁただ、この生き方、たまに超絶しんどい。
加減を少し間違うと、やせ我慢的になってしまって。
声が大きい人が多い世の中、時代にもあっていないですしね。
だけど、一つ。
私がいつも思っていることがあって、
それは、私がそうしたことによって影響を受ける人がいるということ。
私が何かしたことによって、何かができない人が発生してしまっている可能性があることをいつも気にかけている。
できる限り、私のとった行動で、誰かを傷つけるようなことのないようにしたいな、と。
ただし、私が委縮してしまうと、それに対して、不憫に思う人もいるし、それに付け込む人もいるだろうし。
本当に、難しいけれども、
譲る内容のバランスとりは、日々訓練するしかないんだろうなー。
何が正解だとかもわかんないですしね。
残り二つは体力なくなってきたので、簡単に書きますね。
◆もう終わりにしよう
この映画、おそらく、人生を受け入れるがテーマの映画だと思うのですが、
脚本がめちゃくちゃよくて、
基本的に詩集読んでいるような感覚で、物語が進んでいきます。
少しネタバレ的なところもあると思うんですが、
とても分かりやすいメタファーだったので、書いちゃいますが。。。
私は、この映画、自分の中のいろんな自分について書いている作品だと思っております。
自分の中に、人格作りますよね。
私も何枚かお面を持っています。
子供っぽいお面や、余所行き用のお面。
いろんなお面をつけながら、
その都度変わる自分になんて自分が確立されていないんだ、ああ、もういやになっちゃう、
本当の自分て何なのよ、ってなるんですが、
仏教の教えにある通り、すべて自分なのですね。
いろんなお面があるから、いろんな考え方があるし、
いろんなお面でもって、出来事を追体験することで、
物事を多角的にとらえられることもあるんだろうな。
でも大体、この出来事に対してはこのお面で考えるとか決まっていて、
よく固定されがちなんだけども。
なるべくいろんなお面で考えないとなーなんて思ったり。
いろんな種類のお面が同時に納得させられる解を見つけられると、
悟りというか、消化というか、受け入れられることができるんだな、と思った作品でした。
でも最後の5分はよくわからなかったです。
あれをどうとらえたらいいのか…
だれか教えてください。。。。
◆万引き家族
紹介文にも書きましたが、
家族じゃない寄せ集めの家族が、家族らしく暮らしている映画なのです。
見たいみたいと思って数年たってしまって、やっと見れました。
見終わった感想としては、
世間一般の正しいって本当に正しいのかな?というものです。
私はこの家族がしたことは、
確かに目先のことしか考えていない、
場当たり的な家族愛だとは思うのですが。
ただ、まったく責める気にならない。
お腹が空いている貧しい子が万引きしてしまうことを
一体誰が責められるのか。
虐待されている子を、連れ帰って可愛がることを
一体誰が責められるのか。
自分のところで愛情をたっぷり注ぐことができると分かっているから施設に入れなかったことは罪なのか。
大体が、大体がだよ。
世間一般の正しいって、普通の人にしか通用しないと思うわけ。
見てる世界が違いすぎて、
共通の正解なんてないだよね。
でもそれじゃ混とんとしちゃうから、ある程度広域をカバーできる正解=法律というものがあるんだろうけども。
だとしても、普通の人が普通に暮らしていて思う正解やその普通の正解寄りの法律と照らし合わせて
そこから逸れた人が、逸れたなりにいろいろやったことを
判定なんてできっこないじゃん。と思うのです。
心が汚れているわけではないのだったら、
ある程度、許しちゃどうかね、というのが私の結論で。
心が汚れているわけでないのなら、
その人がそうならないようにみんなができる何かはないのかな?と
考えたほうが良い気がして。
だって、その人たち責めたところで、
それ以上のもの生まれなくないですか?
責めた、罰した、それで終わりじゃないですか。
果たして、本当にその人たちだけが、負うべき責務かね?それ。
と思うのです。
普通の正解にこだわることができるのは、それは恵まれていた結果であって、
まず、そういう人を責める前に、
自分に関わってくれた全ての人に感謝してくださいと思います。
同時に、常にみんな正しいゾーンにいないとダメかな?とも思ったり。
正しくなくたって、心がきれいだったら、
目をつぶったり許しあったほうが、豊かなんじゃないだろうか。
(そんなこと言いながら、自分もできる自信ないけどね、でも許していきたいものだな。。。)
とまぁ、長々と書き連ねてきまして、
やっぱり自分の殻から抜けられていない文章にしか
なっていないような気もしつつ、
またみんなが言いつくしてきた内容を自分の口から言い直しただけな感しかないのですが。
今日はここまでとします。
こんなに長い文章読んでくださり、ありがとうございました。
また書きたい内容出てきましたら、書きたいと思います!
ではまた会う日までー!