2024/02/15


佐伯。

私が生まれて。


毎朝望まない朝が来る。

気がつくと貴方が鮮明に見える。

頭の中、頭蓋骨の裏側にまで、蛆が私の神経を貪り食い散らかしていく。

私は痛みに呻く。

その痛みは私の意識をより一層鮮明にする。

私はその意識の中、鮮明になった感覚を繋いで全身に血を通わせる。


誰かが言った。

私たちは生かされているのだと。

ならば誰に?

なぜここまで踊らされないといけないのだ。

私は望んでなどいない。

できるのなら目を瞑って眠りにつきたい。

私の意識は蛆に冒されて鮮明だ。

頭蓋骨の裏側にまで蛆たちは侵食している。私の思考と感情を糧にして、神経を食いちぎり私を廃人にする。

それが貴方の望みなら。

貴方はなんて残酷な生き物なのか。


貴方は私に言った。

生きているだけでは誰のためにもなれないと。

誰かのためになるために生まれ落ちたのか

私は私のために生きることは許されないのか。

死を切望するのならば

私はそれに抗って生きていきたいと思う。

貴方はそれを許さない。

貴方は凄惨な生き物だ。


貴方が全てだと貴方は言う。

私は私が全てだと自分で思う。

誰も理解されないのが世の中だ。

知った顔して笑っているだけ、所詮は皆同じ仮面を被った怪物だ。

私は貴方を信用しない。

だから貴方も私を信用しなくていい。

私は人を信用しない。

だから人も私を信用しなくていい。

私は望まない。

だから貴方も私に望みをかけないで。


人生とはなにか。

生きる理由とはなにか。


つい最近、対面して座る机越しの短い距離で眼鏡をかけた1人の大人が温もりが少し冷めた淡い眠そうな目で私にこう言った。

「私達は人生に生かされているだけだ」と。

話の流れ的には、人生について、であったと思う。私は生きることに疲れていた旨を、彼に相談していた時のことだ。

ぼんやりとした朧気な雰囲気で、説得力にかける言葉の迫力で、眠そうなのを否めない振る舞いで、しかし、その言葉の意味だけには私は驚嘆せざるを得なかった。そうだ、私たちは生かされているだけなのだ、と。

「その人生をどう生きていくかなんですよ。」

そう続ける。

しかし、私は一瞬否定的な意見を持った。

「生かされているだけ?誰に?」

私はそのままあの人に問いかけた。

「なら、私たちはその『人生』に生かされているのならば、誰のために生きれば良いのですか。私は少なくとも、自分のために生きようとは思いません。」と。

その人はようやく暖かさを取り戻した目で、言葉に覇気をつけて、優しく手をかざしながら

「見つけるしかないのです。」

そう言って去っていった。


私は愛着障害


愛着障害という診断名が着いたのはいつ頃かはもうはっきりとは覚えていない。

最初聞いた時、

「愛着障害ってなんだろう」

としか思わず、しかもその疑問もすぐに別の疑問へとシフトチェンジして脳内から消え去ってしまっていたものだから、あまり深く追求したことがなかった。

自分の中で「障害」というカテゴリに、新たに愛着障害が追加された時、感覚としては、「あぁまたか、」程度で、特に何か思うわけでもなかった。それでも、母親が、「私の育てかたのせいだ、ごめんなさい」と必死で謝っていたことは、今でも鮮明に思い出すことが出来る。その時、別に私は母親のせいだとか、父親のせいだとか、思ったことは無かった。障害の本質を理解していなかったのもあるのだろう。障害を誰かのせいにして楽になれるのならば、みんなきっともう楽なはずだろう。私はそう思うのだ。

しかし、この歳になってやっと愛着障害について調べたり教養を深めたりする機会が増えたこともあり、その本質を理解することが出来た。

私は、たしかに母親から姉ほどの愛情を貰ったことは無いな、というのが、たまたま開いた愛着障害コラムの本を読んで初めて思ったことだ。小難しいことがつらつらと並べられた医学的な解説本の中で、当てはまる部分をいくつかまたさらに深堀して、至った結論は、

「今の私は昔の歪んだ愛から来ているものだ」

ということだった。

他にもいろいろとあるのだが、結論から言うと、どの解説本にも過去の経験や愛情不足と書かれており、まぁその通りであろうと思わざるを得ないからである。

幼い頃から、私は母親が大好きで、何時でもくっついていた記憶がある。それがどんなに嫌がられても、触るなと叱責されても、叩かれ蹴られ、怒鳴られても、私には母親から離れるという選択肢は毛頭、微塵もなかった。

母親は厳格でヒステリック気味だった。常に姉のことでピリピリと気を張っていたような記憶がある。私のことより姉。姉は手がかかっていたから、幼い頃は母にも父にも、「我慢しなさい」と強く言い聞かされていたのもあり、我慢する癖がついていたのでさほど寂しくはなかった。いや、本当はかなり寂しかった。

私は多動気味で問題行動を良く起こしていたから母親に叱責されることが多かった。今考えれば、姉に怒鳴ったり叱責することが出来ない分の八つ当たりか、ストレス発散だったのかもしれない。母親も、私は常に姉のサンドバッグ的立ち位置で、可哀想だと言っていた。それなのに、である。母親は姉の療育に手を焼いて、父親は姉を障害だと認めたがらず、夕食どきには必ず夫婦喧嘩が勃発しており、私は恐怖で震えながら必死にご飯をかきこんでいた記憶がある。幼い頃から地獄だった。

毎日のように叱責される中で、私にはどうしても家にいないといけなくなることがあった。

私はかなり重い小児喘息を患っていたのである。

自分的には重いとか軽いとか全くもって分からないのだが、母親から言わせると重いのだそう。

毎日毎日叱責されていたが、この時ばかりは母親は私をかなり気遣い、心配していた。昼ごはんを積極的に作り、仕事を早く切り上げ、私の好きな夜ご飯を作り、そばでトントンして寝かせてくれた。

私はそんな母親が大好きで大好きでたまらなかった。いい子にしてさえいれば、母親は私に優しくしてくれる、もっと言えば、私がずっと喘息で苦しんでいたら、母親はもっと私に構ってくれる。

しかし、そんな夢のような生活も、喘息さえ治ってしまえばまた日常が帰ってくる。怒鳴られ、貶され、死ねと言われ、家から締め出され、姉と父と一緒に私の存在価値を全力で否定しにかかってくる。それでも、私は希望を捨てなかった。いい子にしようと必死に足掻いた。叶うはずも無い愛情を、ずっと求めていた。

私はそのまま大きくなり、誰にでも愛情を求めるようになった。しかし、それは同年代ではなく年上や大人に限定されることが多かった。それまでは、一向に人に興味がなく、触れることを拒み、抱っこされたりすることも嫌いで、仲のいい友達と別れる時なども振り返ることすら一切なかったのにも関わらず、突然触れることを好み、自ら抱きつきに行き、ベタベタと身体接触をすることが多くなった。周りから注意されることも増え、なぜ注意されるのかにも苛立ち、不快感を覚え、制限されることにストレスが溜まっていっていたことをよく覚えている。

私の中には、何人かの住人がいる。

私の行き場の無いストレスは全て住人へとぶつけていた。住人は反論もしなければ嫌がることもない。ただ淡々と傷つけられていくばかりだった。住人自体が表面上出てくることは結構ある。黙っている時や何も発さなくなる時は大抵住人が私の代わりにいる。


死ぬほど辛いこと、なんてない。

生きていることほど辛いことなどないのだから。


悪口を言う人がいた。

私の悪口を言う人だ。

私はその人が苦手だ。

嫌いでは無い。

本能が全てを拒否している、限界中の限界の立ち位置だ。だから、嫌いという言葉では上手く形容できないことだけは確かである。


私を好いてくれる人がいた。

私を愛してくれる人だ。

私はその人が苦手だ。

嫌いでは無い。

私は愛せる資格がないから、嫌われることしかできないから。好きとか、嫌いとか、上手く形容することは出来ない。


私の神経を冒す蛆たちが、私の体を侵食するその時に、私はその激痛の中で生きていることを嫌という程実感する。

死ね、と言われれば、大抵は腹が立つだろう。

サヨナラが嫌いならそれは大概苦でしかないかもしれないが、

生憎のこと私はサヨナラに無頓着な上になんの感情もない。

貴方は少し可哀想な人だ。少し計算ミスをしている。私は貴方が思うより弱くは無い。傷つけられ軽率に人を嫌いになるお前とは根本から違うのだ。