水曜日の昼に、
庭で、本を読みながら、小鳥のさえずりを聞きながら、クラシックを流しながら、
犬をなでながら、ぼーっと
していたとき、、、、、
とても幸せだった。
幸せというか、満足と言うか、目の前の景色というか、その瞬間に感謝・感動をしていた。
まるでうっとりとした印象派の絵画の世界観に入った時、みたいなそんな感じだ。
そこで、ふと、
この幸福はなにか?となった。
人が何か幸せを感じる時、
それは、欲を満たしたときだと思っていた。
もちろん、というか、もしかしたら、その庭で感じた僕の幸せも、
なんらかの多くの欲を満たした上での幸福感だったのかもしれないが、
それは、なにか物質的な世界の満足のレベルではないと感じた。
そう、心の、精神的な満足感だ。
CTRをすると、目の前のブロッグを気にせずに、満足感を得られるのもこれの良い証拠であり、
つまりは、幸せは心が全て生み出しているものであると考えられる。
マズローの欲求5段階説というものがあり、
- 自己実現の欲求 (Self-actualization)
- 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
- 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
- 安全の欲求 (Safety needs)
- 生理的欲求 (Physiological needs)
という5段階に欲をわけた。
上に行けば高次な欲求であり、その分、幸福感も高いのだろう、
というか壮大ななにかを感じ取れるといったほうがイメージとしてはいいのかもしれない。
しかし、僕の先程の幸福感は、このどれでもない気がした。
どうだろうか
まず、生理的ではないし、安全的でもない。いや、それも前提にはあるのかもしれないが、
それではない。
それでは、社会的かと言われると、そこに社会性はないと思うし、犬という存在をさておいて、
その場に、社会は組み込まれていない。もちろん、社会の中に生きているわけで、そこに満足をしているのではないかと言われれば、否定もしづらいが、所謂、社会的に満たされて満足感を得ているという状況とは明らかに違うといえる。もちろん、要素としては含まれているのかもしれないが、それではない。
それでは、承認の欲求か?これも違うだろう。そこには、誰かに認められて嬉しいと言った感情は一つとして無かったといえる、なんなら、認められなくても良いのではないかといえるほど、その空間に幸せを感じていた。
それでは、自己実現欲求を満たした状況なのか?
これは、自分の理想の生を全うしている時に、得られる状況的なはなしなのかもしれない。
すると、これといえるのかもしれない。
あるサイトで、自己実現を調べると、自己実現欲求とは、自分らしい、自分にしかできない生活をしたい。とある。
うーん、果たして、僕のは、自分らしい生き方をしている満足感なのだろうか?またなんか違うと思う。
その場に美しさを感じている。
言語で感じているのか?
肌で感じているのか?
犬も感じているのか?感じられるのか?
そうでないなら、何で感じ取っているのか、何を感じ取っているのか?
と、色々な疑問がある。そして、同時に、自己実現の満足感とはまた違う幸せなきもする。
もしも、自己実現が継続的な幸福だとするのならば、あの幸せは、その空間から生み出される心の平安といった感じであった。
と考えると、自己実現の上に、もう少し上の欲求があるのではないかと考えた。
それは、五感+言語?で認識する世界観との共鳴?から享受できる美しさだ。
これは、決して、自己の世界観にとどまらない。
より高度で幸福度の高い、外とリンクしながらも内側の喜びなのではないだろうか。