朝から、後期授業の段取りを考える。明日は、某センターで打ち合わせがあるので、その準備。この他、お願い事メールや事務連絡メール配信。
午後からは、後期授業のパワポ作成。3時頃にはできたので、紀要の図面を作りはじめる。
そんなことをしながら、学生対応。
しかし、龍田道と考えられる20度斜行の道路と奈良街道は、やはり新しいのではないかと。奈良時代後半まで下る可能性はないのか?
そもそも、西院伽藍ができても、旧南大門と現南大門の間には、斜行地割が残る、南大門が現位置に建てられるのは、平安後期。それまで寺域は狭かった。
すると、あの長大な参道も、いつできたのか?
そもそも、500mの間隔で平行する斑鳩大路と龍田道が併存する意味はあるのか?
これまで議論してきた稲葉車瀬遺跡や酒丿免遺跡・上宮遺跡ほ建物方位が、20度振れる龍田道に合わせるかどうかが議論されているが。建物方位はマチマチ。合うものもあれば、合わないものもある。そんなことが議論されているが、そもそも、その龍田道が7世紀からあるという前提の話。
条里地割は龍田道を越えて、斑鳩大路まで広がること。龍田道の痕跡が、条里地割の中を斜めに走ること。上宮や遺跡が正方位であること。7世紀後半までは、斑鳩大路の地割が残ること。長大な参道が奈良街道と、ほぼ直行すること、などを考えると、この龍田道は奈良時代まで下る?それまでは、斑鳩大路が龍田道だったのでは。そもそも、方各地割は7世紀初には、想定できない。
と思う、今日この頃。