藤原宮の現地説明会に行く!
暑かったが、やや曇っており、雨は降らなかったので良かった。しかし、昨日の強雨で、現場はだいぶ荒れていて、プールになっていたそうだ。
ところで、今回の大極殿後方基壇は、以前に推定した通りの場所に、推定通りに見つかった。新聞では、大極殿後殿が確定したように報道されているが、イマイチしっくりこない。それは大極殿院北区画の存在。ここが空間(空き地)地とは考えづらく、やはり後殿はここに予定されていたが、平城遷都が決まって、未施工に終わったと考えるべきである。
平城宮以降、大極殿の背後には回廊に接続する後殿が存在する。これが独立した後殿になるのは長岡宮以降。その要因は、内裏が大極殿から離れていくことから、後殿として独立した建物になった。
この流れから、新聞のコメントでは平城宮以降の宮殿形態が藤原宮で完成したとある。
本当だろうか?むしろ、藤原は飛鳥様式から平城様式への過度期を示しているような気がする。前期難波宮には、内裏前殿の背後に、軒廊て繋がった内裏後殿がある。また、飛鳥宮跡には、内郭前殿の背後に石敷き通路が北地区に伸びており、北地区に正殿がある。このような、形態を「飛鳥様式」とする。平城宮東区以降は、大極殿の背後に、軒廊で繋がった後殿がある。これは大極殿回廊にも接続しており、控室兼門的機能があった。これを「平城様式」とする。
その意味では、藤原宮は、飛鳥様式と平城様式の両方を兼ね備えており、次の平城宮へは、中央区に飛鳥様式の後殿が、東区に平城様式の後殿が採用され、最終的には平城様式に淘汰されていったと考えてはどうだろうか。