本日、王寺町のリレー講座。

この会は毎回盛況で、今日も満員御礼!


今日の話は、「狂心渠の真実!」のお題であった。言わずと知れた斉明朝の運河。

この話は、三段階でこれまで考えてきた。最初は酒船石遺跡や飛鳥東垣内遺跡が発見されて、報告書を作成するとき。このときは飛鳥から藤原京までの範囲を復元した。しかし、大官大寺周辺については保留していた。

ここを真面目に検討したのは2年前の「ブラタモリ」のとき。3ルートある候補の関係がスムーズに理解できた。同時に、百済大寺・高市大寺・大官大寺の関係も理解できることになった。このことは別のところでも話をしたところです。

さらに課題として残っていたのが、藤原京から天理豊田山までのルート。結論的には下ツ道の側溝運河と理解した。

この結果、斉明朝には天皇祭祀の場「酒船石遺跡」を造るために豊田山から運河を造って石垣を造ったのだが、民にはこの重要性が理解できなかった。そのため「狂心渠」と謗られることになった。

さらに次世代には、国家寺院や藤原宮の造影運河として、飛鳥池工房の製品搬出、条里水田のかんがい用水として、現代にも利用されている。結果論ではあるが、斉明天皇は先見の明があったとも言える、という話。

これで狂心渠を、ある適度理解できるようになった!