先日、上記の抜刷をいただきました。ありがとうございます。
以前に、中尾山古墳のある丘陵斜面から出土した土器群である。中尾山古墳とは時代が合わないことから、性格不明の土器群とされていた。著者によると、これは建皇子と斉明改葬時の殯宮に伴うものだとする。なぜ、中尾山で殯をするのかは、ここが「今城」の範疇で、梅山古墳が望めるからという。この他にも論拠は記されているが、梅山が見える丘陵だからというのは、どうも納得できない。もっとも、著者は梅山=敏達未完成陵と考えているようだが、この点も私とは一致しない。殯をするなら、墓の見えるもうひとつ北の尾根の方が良いと思うのだが……。
しかし、これまで性格不明の土器群の、ひとつの解釈を提示した意味では意義がある。この土器群も真面目に考えないといけないか?