中村修也氏の上記の図書を読んだ。天智朝の新解釈である。
その解釈の根幹は、白村江によって倭は負けたということ。つまり敗戦国であるということである。
これまで、白村江で負けたとはいえ、倭は占領されたわけてはなく、攻め込まれる脅威を感じていた。そのため山城を造り、大津へと都を遷したとするのが、定説である。

しかし、中村氏は敗戦国であり、すでに倭は唐の占領下にあったとした。白村江での敗戦で、倭が唐から何ら要求がないとは考えられない。それは第二次大戦など見ても明らかで、国家間の戦争ではオーソドックスな考え形である。これをベースにいくつかの指摘をしている。
まず、白村江敗戦後、最高責任者である中大兄皇子が飛鳥には戻っていなかったとした。確かに、斉明の亡骸は飛鳥に戻され、殯を行っていたが、記録上、中大兄皇子が戻った資料はない。漠然と、多くの事象から、戻ったとされていただけだとする。むしろ、敗戦処理の責任者して那津宮で、唐との対応にあたっていたとする。中大兄皇子の即位が遅いのも、飛鳥に戻っていなかったからである。
次に、水城を敗戦後に築堤するが、一般的には、太宰府防衛のために造ったとされている。しかし、すでに敗戦後であることや、太宰府が成立するのがもう少し後であることから、これは占領軍が在地の人々から自らを守るためとする。唐は百済などの占領するとき、都督府を置き、地元の有力者を高位につけて、支配拠点とする手法をとる。つまり、筑紫都督府を太宰府においたとした。
そして、北部九州から瀬戸内沿岸に築かれた山城は、唐からの進入を防ぐものとされているが、山城の構造としては、城壁を突破されると、ひとたまりもないことは、これまでから研究者から指摘されていた。このことから、山城は唐からの侵入を防いだり、逃城ではなく、逆に、唐の地方支配の拠点と解釈した。山城の防御面の構造的欠陥はこれによって解釈される。
さらに飛鳥も唐の支配下に置かれていたとする。そして、大津宮遷都はより守りやすい場所への遷都ではなく、唐に飛鳥を引き渡さなければならなかったからだとした。
しかし、高句麗の滅亡や新羅による半島の統一により、唐による倭支配の経路を断たれ、途中で断念した。一方の、新羅は対唐関係のために倭へと交流を深める方針変更をしたのである。

本書は、いくつかの点で、整合的に解釈できるのだが、飛鳥が唐の占領下に置かれていた形跡が天智朝の飛鳥には認められず、現状では納得しがたい。しかし、本書の発送は極めて興味深く、敗戦国としての歴史は改めて再検討する必要がある。

・中村修也著 『天智朝と東アジア-唐の支配から律令国家へ-』 NHKブックス 2015年10月刊行

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