本日、橿原考古学研究所の記者発表があった。年末に現場を見せていただいた時と、発表内容はだいぶ変わっていたが、舒明天皇の初葬墓「滑谷崗」であるらしい。その根拠は、榛原石の使用と使い方のようだ。しかし、ほんとうだろうか?
ここが舒明初葬墓だとすると、これだけのものを造って、なぜ9ケ月で改葬するのか?
忍坂に移す理由は?
舒明は後半、蘇我氏とは、距離を置くようになったようだが、なぜ甘樫丘の一角なのか?
堀は埋められているようで、跡地利用されていると思うが、天皇陵なら植山古墳のように、厳重な管理がされていないのはなぜか?
など、疑問点が多い。どうも、賛同しがたい。
むしろ、位置や規模、歴史的背景からみて、「大陵」の方が良いと思うのは、私だけではあるまい。
これとて、課題がないわけではない。菖蒲池古墳との構造の違い、規模の違いは大きな課題である。
このあたりは、やはり「旬」にするしかあるまい。週末は日直なので、この日に書こう(事務連絡)。
ちなみに、現地説明会は18日(日)の10時~16時。養護学校という制約上、この日しか見れませんので、ご参加ください。