『明日香風』の最新号を読んだ。特集は壬申の乱である。この号に、「壬申の乱と飛鳥寺西槻下-小墾田兵庫をめぐって-」なる論考がある。この中で、小墾田兵庫は西槻広場の北方の離れた場所にあるとする。その候補地としては、大官大寺の北にある小字「兵庫田」あたりとする。これまでによく言われている候補地である。すでに別稿で指摘したが、『日本書紀』を素直に読むと、確かに距離がありそうである。しかし、記事の内容からは、距離的な問題の他に、心の中の問題もあるのではないだろうか。つまり、馬に乗ってイヤイヤ来たので、距離のあるような表現になったとも考えられるのである。さらに遺構や遺物から、私は石神B期を小墾田兵庫と考えている。このあたりは意見の異なるところである。
さらにこの論考では推古朝小墾田宮にも言及しており、奥山廃寺の川を隔てた西側の微高地で、小字「トノキタ」や「トノマエ」の地を候補とする。この場所は私も考えた候補地のひとつであるが、何分発掘調査が行われていないので、なんとも言えない。しかし、推古朝の山田道が飛鳥寺の北限塀のところに推定されることを考えると、やや難しいであろう。ここよりも可能性の高い場所としては、この古山田道に面したところを第一候補とするのだが、このあたりの論証は、近々某所に掲載されるので、乞うご期待……。