研究会であった。二本の報告があったが、そのうち一本は、難波羅城に関するもの。難波羅城といえば、条坊制都城に伴う羅城が想定されてきたが、今回の黒田報告によると、百済式山城などのように、山城と山城を繋ぐ羅城とする。その痕跡は、細工谷遺跡の段丘下の塀を、羅城の版築に伴う掘立柱塀とする。まだまだ、点としての調査であるが、おもしろい指摘である。
ただし、このように考えると、羅城が都を囲むことができるのか?四天王寺がその外側になるが良いのか?など、まだ疑問点はたくさんある。しかしながら、このような羅城も検討する価値はあると思う。