『古代宮都の内裏構造』をさらっと読んだ。大筋は前著やいろいろなところでも知っているが、じっくり読まないと、本質まで理解するのは難しい。しかし、文献史料の徹底的な検証と発掘成果との検討を踏まえて、歴史的な変遷を読み解いている本である。昔、いっしょの現場班で発掘していた時も細かかったが、あいかわらず研究面でも細かい。もっとも、詳細な検証・検討だから説得力があるのだが。私はおおざっぱな人間なので、なかなかここまで出来ないが、興味の方向は以前から同じである。少し時代が違うくらいであろうか。
さて、橋本氏の研究で、平安時代初期の平安宮の内裏構造と、そこに至る変遷が明らかになった。つまり、初期平安宮の内裏は天皇宮(公私)と皇后宮(皇后の宮)と後宮(キサキ達の宮)が一体となったもの。時々、太上天皇宮も含まれるが。しかし、この構造になるのは奈良時代の後半~末ころで、それ以前は、基本的に内裏は天皇宮であった。ここで問題となるのは、飛鳥宮や藤原宮の皇后宮と後宮の実態。残念ながら藤原宮の内裏中心部は池の中で調査をしても、どれだけ解明されるかはわからないが、内裏北半や東西辺は調査をすれば、わかってくるのだろう。今回の著書の中で、一枚の図が掲載されている。藤原宮内裏のこれまでの発掘成果に、平城宮1期の遺構図を重ね合わせている。醍醐池の北岸に土壇状の高まりがあると、以前から聞いていたが、まさに正殿がここに重なるのは注目である。つまり、藤原宮内裏は平城宮1期の構造と近似する可能性が高いのである。まさに天皇宮だけの内裏である。さらに遡る飛鳥宮内郭には、多くの建物群がある。大極殿・朝堂院の構造が、飛鳥宮と藤原宮では大きく異なることから、単純な比較はできないが天皇宮のみの構造であることは動かないであろう。
このように考えると、飛鳥宮の皇后宮はどこに、どんな構造であるのか?現状における有力候補地は、内郭北西の大型建物と考えるが、後宮はまだまだ謎である。飛鳥宮の外側の本来の家にあったのだろうか。
いずれにしても、橋本氏の研究は、飛鳥・藤原宮を理解するためにも、大いに示唆に富む研究である。『平安宮成立史の研究』と『古代宮都の内裏構造』は必読である(宣伝)。