さてさて、地図と睨めっこは続く。
 小墾田宮が、推古朝から奈良時代まで、何らかの形で続くと考えたが、本当にそうだろうか。史料をみると、推古の小墾田宮は603~630年まで。その後、642年に皇極が一時的に遷るという記事もあるが、655年には瓦葺宮殿を造ろうとするものの断念。672年の壬申の乱の時には、小墾田兵庫と記され、宮殿とは言い難い。そして、760年には離宮として現れる。つまり、推古と奈良時代の間は必ずしも宮殿でない、あるいは宮殿はなくなっていたとも考えられる。そこで、注目されるのは、飛鳥寺北方域は2度、大規模な土地区画整理が行われたことである。藤原京の条坊地割と、奈良時代はじめの条里地割てある。奈良時代の小治田宮は条里地割に規制されているが、推古朝は条里には規制されない。つまり、両者はまったく同じ場所でなかっても良いことになる。
 この点と推古朝山田道との関係を考えると、この道に北接すると考えるべきで、これから離れるのは難しい。ここで注目されるのは石神遺跡であるが、これまでの調査では推古朝の確実な遺構は少ない。斉明以降の造成によって、削られたことも考えられるが、現状では困難であろう。そこでもうひとつの候補地としては、仮称石神東方遺跡である。ここだとすると、この他にもいくつかの点が適合することが多い。いかがであろうか?
 いずれにしても、もう少し検討が必要である。