新聞によると、西安で百済人軍人の墓誌に「日本」と刻まれていることがわったらしい。銘文によると墓誌は678年2月に亡くなったらしい。これが事実だとすれば、670年代に「日本」という呼称があったことになる。これまで、701年の遣唐使から「日本」と名乗ったとされていたが、これを遡ることになる。まあ、「天皇」木簡も天武朝なので、あながち良いのかもしれない。問題はどこまで遡るのかだが、銘文の将軍は白村江の直後の人物であり、天武朝よりも天智朝に遡る可能性も視野に入れなければいけないのだろうか。天智朝もやはりおもしろそうだ。ただ、この墓誌は、墓誌そのものが見つかっているわけではく、残されているのは拓本だけだという。真偽のほども検証が必要だ。