あちこちでカウントダウンが始まっており、すでに6。というより、もうすぐ5になる。このカウントダウンは事務局の者のためなのだが、みょーにプレッシャーを感じる者がもう一人いるのである。
さて、その某所で、橘と嶋の関係に頭を悩ませているようだ。一般的には、川を隔てた西側も東側も「橘」地域で、その中に嶋宮がある。明暦2年に島庄が橘村から分村したということになっている。その根拠は、『万葉集』に「橘の嶋宮」とあることと、天平勝宝8年に嶋宮の御田が橘寺に寄進されたことである。これらを補強するように、飛鳥川の西側で、嶋宮にかかわる東橘遺跡が見つかっていることと、小墾田宮も飛鳥川を挟んで東西に広がる可能性があることから、嶋宮も飛鳥川を跨ぐ両側に広がると考えられている。
しかし、これは正しいのであろうか?まず、石舞台古墳が「桃原墓」と考えられることから、飛鳥時代はじめまでは「桃原」であったと考えている。馬子の時代、あるいはそれ以降に「嶋」とよばれたのであろう。問題は、飛鳥川の西側も「嶋」の地域であったかであるが、東橘遺跡は嶋宮とは考えがたい。よって、飛鳥川の西側は「嶋」とは呼ばれていなかった。むしろ飛鳥の東側が橘の地域に組み込まれるのは、天平勝宝8年に嶋宮の御田が橘寺に寄進されたことにかかわるのではないだろうか。いずれにしても橘と嶋は密接な関係にあったのは間違いないが、当時はやはり、飛鳥川が境界になっていたと思う。残る課題は『万葉集』の「橘の嶋宮」とあることで、これは7世紀後半の頃と考えられる。まだまだ、課題も多く。だれもが納得できる明瞭な回答は用意できていないのである。