飛鳥宮北辺の調査があった。残念ながら現地説明会には行けなかったが、先日、現場で担当者に説明をしていただいた。新聞では、飛鳥寺の南の石敷広場ばかりが注目されたが、今回の調査のポイントは、飛鳥宮北辺の石組溝と、飛鳥寺と飛鳥宮の間の空間利用である。
後者については、石敷を含めて正方位から振れた方位で、古い地割りを踏襲しているという。しかし、なぜ、正方位の飛鳥寺と正方位の飛鳥宮に挟まれた細い空間だけが、異方位なのかは謎である。また考えていきたい。
一方、北限の石組み溝については、今回、幅3mの飛鳥宮最大の石組溝として、当初予想されていた位置で検出された。つまり、157次、161次西区、そして今回の調査区と一直線で繋がることになる。ただし、昨年の161次東区では推定位置に掘立柱建物が見つかっており、溝が迂回していたとも考えられているようだ。しかし、飛鳥宮の基幹水路が、一部だけ建物を迂回するとは考えられず、やはり、161次東区の畦の下(未調査区)に溝が通過していた可能性も残されている。このように考えると、掘立柱建物は、石組溝を跨ぐ特殊な建物ということになる。雨落溝も確認されているので、屋根のある建物と考えられるが、あるいは橋であったかもしれない。この場所は飛鳥宮内郭中軸線の真っ直ぐ北に延ばした地点にちかいことも、このあたりに入口的な施設が存在したことを示唆しているように思える。もっとも、直接的な北限施設である大垣は未だ見つかっていない。これまでの一連の調査で、石組み溝の北側には、飛鳥寺までの間に大垣は見つかっていない。そこで飛鳥宮東面の様子をみてみると、飛鳥宮の東面大垣があり、その東外側に南北道路、南北石組溝がある。この石組溝が北に回り込み、今回の石組溝に連なるものと考えられる。そうすれば、飛鳥宮北辺も南から、北面大垣・東西道路・東西石組溝の順に配置されていたとするのが自然であろう。つまり北面大垣は昨年の161次東区の南方にあった可能性が高い。さらにいえば、その調査区の直ぐ南の畦ラインが最もあやしい地点である。もしすすると、ここに北門があったかもしれない。いずれにしても、まだ北限大垣そのものは未発見ではあるが、ほぼ北限を推定できる段階になったといえよう。
後者については、石敷を含めて正方位から振れた方位で、古い地割りを踏襲しているという。しかし、なぜ、正方位の飛鳥寺と正方位の飛鳥宮に挟まれた細い空間だけが、異方位なのかは謎である。また考えていきたい。
一方、北限の石組み溝については、今回、幅3mの飛鳥宮最大の石組溝として、当初予想されていた位置で検出された。つまり、157次、161次西区、そして今回の調査区と一直線で繋がることになる。ただし、昨年の161次東区では推定位置に掘立柱建物が見つかっており、溝が迂回していたとも考えられているようだ。しかし、飛鳥宮の基幹水路が、一部だけ建物を迂回するとは考えられず、やはり、161次東区の畦の下(未調査区)に溝が通過していた可能性も残されている。このように考えると、掘立柱建物は、石組溝を跨ぐ特殊な建物ということになる。雨落溝も確認されているので、屋根のある建物と考えられるが、あるいは橋であったかもしれない。この場所は飛鳥宮内郭中軸線の真っ直ぐ北に延ばした地点にちかいことも、このあたりに入口的な施設が存在したことを示唆しているように思える。もっとも、直接的な北限施設である大垣は未だ見つかっていない。これまでの一連の調査で、石組み溝の北側には、飛鳥寺までの間に大垣は見つかっていない。そこで飛鳥宮東面の様子をみてみると、飛鳥宮の東面大垣があり、その東外側に南北道路、南北石組溝がある。この石組溝が北に回り込み、今回の石組溝に連なるものと考えられる。そうすれば、飛鳥宮北辺も南から、北面大垣・東西道路・東西石組溝の順に配置されていたとするのが自然であろう。つまり北面大垣は昨年の161次東区の南方にあった可能性が高い。さらにいえば、その調査区の直ぐ南の畦ラインが最もあやしい地点である。もしすすると、ここに北門があったかもしれない。いずれにしても、まだ北限大垣そのものは未発見ではあるが、ほぼ北限を推定できる段階になったといえよう。