檜隈の中心部で、大壁遺構と掘立柱建物群がみつかり、見学会があった。ようやく檜隈中枢で確実な渡来人の住宅が確認されたことになる。今回の発見の意義は以下の3点にある。
 これまで、檜隈縁辺部の高取町では大壁建物が確認されていたが、檜隈寺のある中心部では見つかっていなかった。今回の発見により、檜隈が渡来人の里であることの物証をつかめたことになる。
 二つ目は、7世紀中頃を境に、大壁遺構から掘立柱建物へと変化していることが確認されたことにより、異国の生活形態から、日本的生活形態へと変化したことがわかったことである。この変化は一世代くらいで変わっていることから、親は韓国風の建物に住んでいたが、子供の代になると日本風の建物に建て替えたということであろうか。
 三つ目は7世紀後半になると三面庇付き建物を含む掘立柱建物群が見つかったことである。今回の庇付き建物は、この地域の中心建物と考えられ、この丘陵上に居宅の建物群が展開することになる。隣の尾根上には檜隈寺があり、寺院と付属施設のある尾根、そして住宅の尾根が隣接して並んでいることになり、氏寺とその造営氏族の居宅がセットになる。このように考えれると、今回の居宅の主は東漢氏の中でもトップクラスの人物になろうか……。なかなか興味深い調査だ。