甘樫丘の一角で、今年も発掘調査がなされた。甘樫丘東麓遺跡である。今回で5回目の調査になり、新聞でも蘇我入鹿の邸宅の有力候補地といわれている。
 今回の調査では、2年前にみつかった石垣の延長部分が見つかっている。あわせて約34m、高さは最大約1mにも及ぶことがわかった。ただこの石垣は、一直線ではなく、途中で1.6mの屈曲している。石垣の傾斜も約50度の傾斜で積まれており、一部には上に登るための段も見られる。7世紀中頃のものである。また、調査区東南隅には幅1.5~3m、現存長8~9mの石敷がある。谷側に石組溝を併設し、一部に突出する部分もみられる。7世紀中頃のものであるらしい。この尾根上方に何らかの施設があった可能性が高い。他にも柱穴や石組溝があるが、7世紀後半のものらしい。
 そもそも甘樫丘東麓遺跡が蘇我入鹿の「谷の宮門」と言われるようになったのは、1994年の最初の調査です。この時は焼土や建築部材、大量の土器が谷に投棄された状態で見つかった。土器の年代は640年よりも少し新しい頃のものだったので、調査区のすぐ上方に建っていたものが焼けて、谷に投棄されたと推定された。日本書紀には蘇我蝦夷・入鹿の邸宅が甘樫丘に建てられ、乙巳の変で入鹿が殺され、蝦夷は自宅で火を放ったとされている。この記事と遺跡の状況が一致することから、有力な候補地となったのである。さらに2005年度から継続している調査では7世紀中頃の建物群や7世紀後半・7世紀末の遺構も確認され、さらに邸宅の可能性が高まったと言われている。
 しかし、ここが本当に蘇我氏の邸宅だろうか?これまでの調査では、確かに大化改新前後の建物群や石垣などがみつかっている。しかし、建物の規模は小規模なもので、邸宅の中心部とはいいがたい。小規模な区画とその内側で総柱建物(倉庫?)があることから、雑舎などの可能性はある。また、今回も確認された石垣は、構築技術に百済系技術の系譜が見られるのかもしれないが、この石垣も新聞等にいわれるように、防御用の「城柵」に該当するというよりは、石垣の高さや傾斜、さらには途中でステップ状の石段があることから、傾斜地をひな壇造成するための法面保護用とみるべきであろう。これらのことから、ここが蘇我氏の邸宅そのものとは考えがたい。
 ここで注目したいのは、広大な甘樫丘で、調査がされているのは今回の甘樫丘東麓遺跡と北麓にある平吉遺跡だけであることである。つまり甘樫丘では、まだ未調査の遺跡が眠っている可能性が高い。そして、二つの遺跡では共通する遺物がある。豊浦寺と同じ瓦である。さらに同じものが、古宮遺跡で見つかっている。ここは小墾田宮推定地と長らく考えられていたが、蘇我蝦夷の豊浦の宅の可能性が高いと考えている。つまり、4つの遺跡はすべて蘇我氏にかかわる遺跡と考えられ、このように推定すると、甘樫丘そのものが、当時蘇我氏のテリトリーになっていたとすべきであろう。
 今回の甘樫丘東麓遺跡は、蘇我邸宅中心部ではないが、その一角であった可能性はたかい。その遺跡で、乙巳の変前後の遺構が確認され、その後の土地利用の様子もわかってきた。今回の調査地では、まだ追加の調査が必要で、7世紀中頃の遺構の解明が期待されるが、甘樫丘全体の解明も重要課題と考えられる。