その3
 後期難波宮の大極殿は版築によって築成され、凝灰岩基壇化粧、礎石建ち瓦葺建築である。ただし、この基壇版築の築成は複雑で、まず土壇Aがあり、これを一部削るようにして土壇Bを築く。この土壇Bは前期の旧地表面を掘り込んでいる。さらに北辺に土壇Cを継ぎ足すようにして、大極殿土壇が完成する。ここで問題となるのは、土壇B・Cには焼土や前期小石が混じるのに対して、土壇Aにはこれらがまったく含まれない点である。
 ここでこれらを整合的に理解できる解釈は、土壇Aは前期難波宮にかかわる土壇で、これを一部利用しながら、後期大極殿基壇が作られたとする理解である。つまり、前期難波宮には、ここに基壇建物があったことになる。当時の基壇規模を復原すると東西40m程度の基壇となり、内裏前殿と同規模になる。さらに建物の柱穴や木製基壇の小柱穴もみられないことから、礎石建物の可能性もある。
 このように内裏南門のすぐ南側中軸線(朝堂院内)に基壇をもつ礎石建物があったすると、その性格が問題となる。これまで前期難波宮では、内裏前殿が「大極殿相当建物」や「大極殿前身建物」などと呼ばれていた。しかし、今回の土壇が前期の基壇建物であるとすると、「大極殿」の成立についても、非常に大きな問題である。
 しかし、この土壇を含めて、前期難波宮の遺構を再検討すると、いくつかの可能背が浮かび上がってくる。現段階では、確定をできないが、この理解が正しければ、古代宮都研究に与える影響はおおきい。さらなる研究・検討が必要である……。