先日、平泉から来られた方から、ご案内のお礼に、報告書やら図録やら研究論文をいただきました。それによると平泉の最近の成果の一端を伺うことができ、私が訪れた20年ほど前とは、かなり研究が進んだのだなと感じてしまいました。
特に平泉の都市構造が、発掘でかなりわかってきており、それも時代によって異なるようだ。例えば、藤原清衡の時代は中尊寺と柳之御所が道路で結ばれ、拠点同士を地形に合わせた形で生活をしていた。次の藤原基衡の時代には、毛越寺や観自在王院を造営、その南に東西大路を施設して、これを基準に正方位の方画地割を形成する。さらに藤原秀衡の時代になると、柳之御所・無量光院・伽羅御所を東振方位の大区画で囲み、その南も同じ方位で区画するという。これらの都市形成過程は、京都の宇治や白河などの都市形成と共通するという。さらに多賀城や東山官衙遺跡などの古代後半の地方都市にも通じるものとする。そして、古代都市史の中で平泉を位置づけると、中心拠点から縦横に道路を延ばし諸施設を配置する「飛鳥型」から、いわゆる条坊制の都である「都城型」、そして拠点を北におき、そこから南北大路と東西大路を設定、方画地割りを形成する「疑似都城型」に変遷する。平泉の都市形成も「飛鳥型」から「疑似都城型」への変化の中に位置づけられるという。
飛鳥の場合、確かに、都城のような方画地割りはみられない。拠点施設があり、そこから道路がのびたり、その周囲に道路網が形成されていく。それも飛鳥時代100年間の変遷がある。
では、飛鳥の拠点とはどこだろうか?やはり、飛鳥中心である「飛鳥宮」の場所であろう。飛鳥宮は飛鳥の盆地の最も広範囲に土地を確保できる場所であり、少し奥まっているが、周囲よりも高燥な土地である。ここを最も重視していたのは間違いない。ただし、飛鳥で最初に建築された建造物は飛鳥宮ではなく、飛鳥寺であった。推古天皇が飛鳥に来る前に造営が始まっていることから、飛鳥の都市建設の象徴でもある。最も、飛鳥寺の創建は天皇家ではなく、蘇我氏であったことも重要である。しかし、飛鳥寺は、飛鳥の最も良い場所に建築されたのではなく、飛鳥の北の入口を塞ぐように建てられている。つまり、「飛鳥宮」の空間は、最初から予定されていたのである。その意味でも飛鳥寺があの場所に建てられた意味は深い。従来、飛鳥宮の南に「ミハ山」があり、飛鳥宮はこれを基準に建てたという説もあるが、あるいは「ミハ山」を基準にしたのは飛鳥寺であったのかもしれない。一度まじめに考えてみる必要がある。
いずれにしても、これまで平泉と言えば、時空間的に遠いところにあると思っていたが、「都市史」の中で体系的に位置づける研究は必要で、さらには鎌倉や江戸など、中近世都市をも視野に入れた研究が必要となってきたのは間違いない。
やはり、一度、平泉に行って、現地を散策せねばなるまい。しかし、平泉は遠いよなぁ……。
特に平泉の都市構造が、発掘でかなりわかってきており、それも時代によって異なるようだ。例えば、藤原清衡の時代は中尊寺と柳之御所が道路で結ばれ、拠点同士を地形に合わせた形で生活をしていた。次の藤原基衡の時代には、毛越寺や観自在王院を造営、その南に東西大路を施設して、これを基準に正方位の方画地割を形成する。さらに藤原秀衡の時代になると、柳之御所・無量光院・伽羅御所を東振方位の大区画で囲み、その南も同じ方位で区画するという。これらの都市形成過程は、京都の宇治や白河などの都市形成と共通するという。さらに多賀城や東山官衙遺跡などの古代後半の地方都市にも通じるものとする。そして、古代都市史の中で平泉を位置づけると、中心拠点から縦横に道路を延ばし諸施設を配置する「飛鳥型」から、いわゆる条坊制の都である「都城型」、そして拠点を北におき、そこから南北大路と東西大路を設定、方画地割りを形成する「疑似都城型」に変遷する。平泉の都市形成も「飛鳥型」から「疑似都城型」への変化の中に位置づけられるという。
飛鳥の場合、確かに、都城のような方画地割りはみられない。拠点施設があり、そこから道路がのびたり、その周囲に道路網が形成されていく。それも飛鳥時代100年間の変遷がある。
では、飛鳥の拠点とはどこだろうか?やはり、飛鳥中心である「飛鳥宮」の場所であろう。飛鳥宮は飛鳥の盆地の最も広範囲に土地を確保できる場所であり、少し奥まっているが、周囲よりも高燥な土地である。ここを最も重視していたのは間違いない。ただし、飛鳥で最初に建築された建造物は飛鳥宮ではなく、飛鳥寺であった。推古天皇が飛鳥に来る前に造営が始まっていることから、飛鳥の都市建設の象徴でもある。最も、飛鳥寺の創建は天皇家ではなく、蘇我氏であったことも重要である。しかし、飛鳥寺は、飛鳥の最も良い場所に建築されたのではなく、飛鳥の北の入口を塞ぐように建てられている。つまり、「飛鳥宮」の空間は、最初から予定されていたのである。その意味でも飛鳥寺があの場所に建てられた意味は深い。従来、飛鳥宮の南に「ミハ山」があり、飛鳥宮はこれを基準に建てたという説もあるが、あるいは「ミハ山」を基準にしたのは飛鳥寺であったのかもしれない。一度まじめに考えてみる必要がある。
いずれにしても、これまで平泉と言えば、時空間的に遠いところにあると思っていたが、「都市史」の中で体系的に位置づける研究は必要で、さらには鎌倉や江戸など、中近世都市をも視野に入れた研究が必要となってきたのは間違いない。
やはり、一度、平泉に行って、現地を散策せねばなるまい。しかし、平泉は遠いよなぁ……。