『紀要』が刊行された。今回は奥飛鳥について考えてみた。そもそも、阪田より上流の飛鳥川流域は「奥飛鳥」とも呼ばれている。特に、稲渕の棚田は10年ほど前から棚田オーナー制度などで賑わっており、棚田景観がよみがえってきている。
この棚田はいつからあるのか?その文化的景観はいつ形成されたのか?
これが今回のテーマでもあった。そこで、この地域の歴史をさぐるべき、これまでの考古学成果を中心に、歴史的変遷を素描してみた。
この地域では、稲渕ムカンダ遺跡をはじめ縄文時代から遺跡がみられる。しかし、これは定住ではなく、山と川にその生活の基盤を求めている時期である。飛鳥川上流域に定住が始まるのは飛鳥時代からである。文献によると南淵請安の邸宅が「南淵」にあったとされるが、その場所は明らかではない。発掘調査で判明しているのは坂田寺と稲淵宮殿跡、そして飛鳥川沿での遺跡である。これらは寺院と宮殿、そして吉野行幸の中継地点と考えられており、集落ではない。ここで注目されるのは竹野王石塔があったとされる「朝風」の地である。この地は「長屋王家木簡」でも「旦風」と記され山寺もあったとされる。発掘調査が実施されていないので明確ではないが、今後注目すべき地域である。いずれにしても「朝風」の地には飛鳥時代に南淵請安の邸宅があり、これを含む集落が形成されていたと考えられる。平安時代後半から鎌倉時代にかけては、「朝風千軒」と伝承されるように集落が広がっていたと考えられる。この集落が移転するのは室町時代である。室町時代になると「朝風」集落が川向かいに移転し、「稲渕」となる。同様に「栢森」集落もシロカイト遺跡から、この時期に移転。「阪田」集落も坂田寺あたりから、現在の地に遷る。そしてもとの集落地は水田景観へと変貌するのである。つまり、現在の集落は室町時代に形成され、稲渕棚田なども室町時代に形成されたと推定できる。
このような中、飛鳥川上流域の飛鳥川の景観は、飛鳥時代とあまり変わっていない。これは飛鳥川中流域では、飛鳥時代に宮殿・寺院など林立していたのが、現在は水田や里山景観に変貌したのと対照的である。
いずれにしても、飛鳥川上流域の文化的景観は、このような歴史変遷を経て、形成されたのである。
この棚田はいつからあるのか?その文化的景観はいつ形成されたのか?
これが今回のテーマでもあった。そこで、この地域の歴史をさぐるべき、これまでの考古学成果を中心に、歴史的変遷を素描してみた。
この地域では、稲渕ムカンダ遺跡をはじめ縄文時代から遺跡がみられる。しかし、これは定住ではなく、山と川にその生活の基盤を求めている時期である。飛鳥川上流域に定住が始まるのは飛鳥時代からである。文献によると南淵請安の邸宅が「南淵」にあったとされるが、その場所は明らかではない。発掘調査で判明しているのは坂田寺と稲淵宮殿跡、そして飛鳥川沿での遺跡である。これらは寺院と宮殿、そして吉野行幸の中継地点と考えられており、集落ではない。ここで注目されるのは竹野王石塔があったとされる「朝風」の地である。この地は「長屋王家木簡」でも「旦風」と記され山寺もあったとされる。発掘調査が実施されていないので明確ではないが、今後注目すべき地域である。いずれにしても「朝風」の地には飛鳥時代に南淵請安の邸宅があり、これを含む集落が形成されていたと考えられる。平安時代後半から鎌倉時代にかけては、「朝風千軒」と伝承されるように集落が広がっていたと考えられる。この集落が移転するのは室町時代である。室町時代になると「朝風」集落が川向かいに移転し、「稲渕」となる。同様に「栢森」集落もシロカイト遺跡から、この時期に移転。「阪田」集落も坂田寺あたりから、現在の地に遷る。そしてもとの集落地は水田景観へと変貌するのである。つまり、現在の集落は室町時代に形成され、稲渕棚田なども室町時代に形成されたと推定できる。
このような中、飛鳥川上流域の飛鳥川の景観は、飛鳥時代とあまり変わっていない。これは飛鳥川中流域では、飛鳥時代に宮殿・寺院など林立していたのが、現在は水田や里山景観に変貌したのと対照的である。
いずれにしても、飛鳥川上流域の文化的景観は、このような歴史変遷を経て、形成されたのである。