先日の研究会で『難波宮址の研究 第15』をいただいた。東方官衙の報告で、廊状施設に囲まれた特殊な空間が考察されていた。
難波宮の正報告はこれで15冊目。最近は次々と報告書がでる。考察は十分でない部分や、現状では明確にできない部分もあるが、発掘の成果は、現地説明会や概要だけでなく、やはり報告書として、遺構・遺物の報告が必要だ。
報告書では、どんな遺構が検出され、どんな遺物が出土して、何がわかったのかを記していく。そして、そこからどこまでのことが推定でき、言えるのか。そしてどのようなことが、想定されるかが問われる。つまり、何がわかり、どこまでが推定されるかを調査機関としての公式見解とする。それ以上の想定は、問題提起ととしては言えても、個人の見解であって、公式見解とはならない。
つまり、発掘でわかった事実とそこから推定される見解が報告書で示される。さらに上の想定は個々の論文で示せば良いとおもう。そのためには、報告書の刊行が必要で、刊行することによって、調査成果が公開され、世に問われることになる。そして他の研究者による研究がはじまり、より広い見地からの検討が可能になると思う。その意味でも報告書の刊行は必要不可欠であり、その記載内容が報告書や発掘の質を表わすことになる。つまり、調査担当者や機関の質にもつながる。
一方、我が社の概報や報告書はというと、なかなか十分な内容になっているとは言い難い。前に作ったとある報告書では、上記のことを念頭に作成したが、どこまで、その意図が理解されているかは、読者次第である。もっともっとレベルをあげなければ。
難波宮の正報告はこれで15冊目。最近は次々と報告書がでる。考察は十分でない部分や、現状では明確にできない部分もあるが、発掘の成果は、現地説明会や概要だけでなく、やはり報告書として、遺構・遺物の報告が必要だ。
報告書では、どんな遺構が検出され、どんな遺物が出土して、何がわかったのかを記していく。そして、そこからどこまでのことが推定でき、言えるのか。そしてどのようなことが、想定されるかが問われる。つまり、何がわかり、どこまでが推定されるかを調査機関としての公式見解とする。それ以上の想定は、問題提起ととしては言えても、個人の見解であって、公式見解とはならない。
つまり、発掘でわかった事実とそこから推定される見解が報告書で示される。さらに上の想定は個々の論文で示せば良いとおもう。そのためには、報告書の刊行が必要で、刊行することによって、調査成果が公開され、世に問われることになる。そして他の研究者による研究がはじまり、より広い見地からの検討が可能になると思う。その意味でも報告書の刊行は必要不可欠であり、その記載内容が報告書や発掘の質を表わすことになる。つまり、調査担当者や機関の質にもつながる。
一方、我が社の概報や報告書はというと、なかなか十分な内容になっているとは言い難い。前に作ったとある報告書では、上記のことを念頭に作成したが、どこまで、その意図が理解されているかは、読者次第である。もっともっとレベルをあげなければ。