奈良文化財研究所は古宮遺跡で飛鳥時代前半の山田道を見つけたと発表した。
古宮遺跡は1970年に古宮土壇周辺の調査で、7世紀前半の池や建物が見つかり、庭園遺跡であることがわかった(第1次)。続く、第2次調査は駐車場建設に伴う調査で、7世紀前半から奈良時代初めの建物などが見つかっている。この古宮遺跡は従来、推古天皇の小墾田宮推定地とされていたところであるが、現在では蘇我蝦夷の邸宅の可能性もあると考えている。また、古宮遺跡南側を東西に通過する県道は、古代山田道を踏襲したものと考えられている。
今回は住宅の新築に伴う調査で、わずか56屬猟敢困世、斜行溝とこれより新しい東西溝が見つかっている。斜行溝は幅約1mの素掘溝で、西で北に20度ちかく振れており、この溝より南側には整地層が広がっていた。今回の斜行溝の延長部が西側にある駐車場部分の調査(第2次)でも見つかっている。この溝は7世紀前半の溝と推定されており、今回の溝も7世紀前半のものと考えられる。また、調査地東側の調査(第1次)では7世紀後半には埋没する正方位の東西溝が見つかっており、時期や位置からみて今回の斜行溝と接続する可能性が指摘されている。
興味深いのは第2次調査で斜行溝の南11mの位置に、幅3.8mの斜行溝が平行してあることで、この二つの溝に挟まれた範囲が道路(山田道)であったと推定できるというのである。路面にあたる部分には整地層があり、斜行溝より北側には溝と同じ方位の建物があることも、今回見つかった斜行溝を道路北側溝とする根拠にもなっているようだ。
これまで山田道は飛鳥川東側でしか確認されておらず、それも7世紀中頃以降のものであることがわかっている。しかし、飛鳥川西側では、確実な山田道の遺構は確認されておらず、さらに7世紀前半のものは皆無てある。今回の斜行溝が山田道に関わる側溝であるとすると、7世紀前半の山田道は道路幅約11mで、現在の県道に沿ってほぼ東西に通過していたことになる。ただし、直線道路ではなく、正方位に通過している箇所もあれば、地形などに影響されて大きく振れる部分もある。つまり蛇行していたことになる。
いずれにしても、今回の斜行溝や第1・2次調査の溝を7世紀前半の山田道とするには、まだデータが少ないが、蛇行しながらも、大局的にみればほぼ直線に通過している7世紀前半の山田道を復原できると、これまで不明であった7世紀前半の飛鳥の都市計画を復原する定点にもなる。さらに、このことが7世紀前半の遺構群に方位を大きく振れものが多いということとも関連するのであろう。今後の調査に期待したい。
古宮遺跡は1970年に古宮土壇周辺の調査で、7世紀前半の池や建物が見つかり、庭園遺跡であることがわかった(第1次)。続く、第2次調査は駐車場建設に伴う調査で、7世紀前半から奈良時代初めの建物などが見つかっている。この古宮遺跡は従来、推古天皇の小墾田宮推定地とされていたところであるが、現在では蘇我蝦夷の邸宅の可能性もあると考えている。また、古宮遺跡南側を東西に通過する県道は、古代山田道を踏襲したものと考えられている。
今回は住宅の新築に伴う調査で、わずか56屬猟敢困世、斜行溝とこれより新しい東西溝が見つかっている。斜行溝は幅約1mの素掘溝で、西で北に20度ちかく振れており、この溝より南側には整地層が広がっていた。今回の斜行溝の延長部が西側にある駐車場部分の調査(第2次)でも見つかっている。この溝は7世紀前半の溝と推定されており、今回の溝も7世紀前半のものと考えられる。また、調査地東側の調査(第1次)では7世紀後半には埋没する正方位の東西溝が見つかっており、時期や位置からみて今回の斜行溝と接続する可能性が指摘されている。
興味深いのは第2次調査で斜行溝の南11mの位置に、幅3.8mの斜行溝が平行してあることで、この二つの溝に挟まれた範囲が道路(山田道)であったと推定できるというのである。路面にあたる部分には整地層があり、斜行溝より北側には溝と同じ方位の建物があることも、今回見つかった斜行溝を道路北側溝とする根拠にもなっているようだ。
これまで山田道は飛鳥川東側でしか確認されておらず、それも7世紀中頃以降のものであることがわかっている。しかし、飛鳥川西側では、確実な山田道の遺構は確認されておらず、さらに7世紀前半のものは皆無てある。今回の斜行溝が山田道に関わる側溝であるとすると、7世紀前半の山田道は道路幅約11mで、現在の県道に沿ってほぼ東西に通過していたことになる。ただし、直線道路ではなく、正方位に通過している箇所もあれば、地形などに影響されて大きく振れる部分もある。つまり蛇行していたことになる。
いずれにしても、今回の斜行溝や第1・2次調査の溝を7世紀前半の山田道とするには、まだデータが少ないが、蛇行しながらも、大局的にみればほぼ直線に通過している7世紀前半の山田道を復原できると、これまで不明であった7世紀前半の飛鳥の都市計画を復原する定点にもなる。さらに、このことが7世紀前半の遺構群に方位を大きく振れものが多いということとも関連するのであろう。今後の調査に期待したい。