研究会に行ってきた。テーマは「聖武の造営した宮都」。つまり奈良時代に聖武天皇が造営した恭仁宮・後期難波宮・紫香楽宮、そして平城宮についてである。
奈良時代の宮について、最新の発掘成果や研究について説明があった。最近は、奈良時代の都についての情報が乏しかったが、やはり各地でいろいろと研究が進み、課題も多いと感じた。
今回の研究会でもいろいろと興味深い内容があったが、この中でも大阪市のUさんの発表で、後期難波宮の造営には二段階あり、これに関わって平城宮東区上層の造営年代についても再検討があるとする内容は、非常に興味をそそられた。たしかに、従来より平城宮東区の造営年代よりも後期難波宮の造営の方が早いとされていながら、両者の建物配置や規格が似ており、平城宮東区を簡略化したのが後期難波宮だとされていた。つまり簡略化されたものが先にあり、後に平城宮が造営されたという、不自然な現象が起きていたのである。後期難波宮の造営が二段階にわかれ、さらに平城宮東区上層の年代に再検討が必要となると、なかなかおもしろい結果になる。
やはり、地道に検討することによって、これまでの定説を覆し、大きな成果をもたらす。これによって、歴史観も大きく変わる。それが考古学の醍醐味だと痛感した、一日であった……。
奈良時代の宮について、最新の発掘成果や研究について説明があった。最近は、奈良時代の都についての情報が乏しかったが、やはり各地でいろいろと研究が進み、課題も多いと感じた。
今回の研究会でもいろいろと興味深い内容があったが、この中でも大阪市のUさんの発表で、後期難波宮の造営には二段階あり、これに関わって平城宮東区上層の造営年代についても再検討があるとする内容は、非常に興味をそそられた。たしかに、従来より平城宮東区の造営年代よりも後期難波宮の造営の方が早いとされていながら、両者の建物配置や規格が似ており、平城宮東区を簡略化したのが後期難波宮だとされていた。つまり簡略化されたものが先にあり、後に平城宮が造営されたという、不自然な現象が起きていたのである。後期難波宮の造営が二段階にわかれ、さらに平城宮東区上層の年代に再検討が必要となると、なかなかおもしろい結果になる。
やはり、地道に検討することによって、これまでの定説を覆し、大きな成果をもたらす。これによって、歴史観も大きく変わる。それが考古学の醍醐味だと痛感した、一日であった……。