今朝は朝方までこのことについて考えました、価値判断、

つまり、これは良いとか悪いとか、価値判断すると、人間は自己の内面の探究をする際に、

深く探究出来ないのではないか?と考えていました。

というのも、善悪の問題は、自他に対して罪と罰を与える仕組みになっているのではないか?

と考えました、人間は、誰しも自己保身が働きます、これはエゴの働きによるものです、

何故ならばエゴは自己防衛本能ですから、一般的な人々、つまり「善良なる市民」に対しても、自己の内面の悪に対して、社会的な、つまり法的な倫理的な道徳的な、または宗教的な、罪や罰を与えるような仕組みに対して、

防衛本能が働くと考えました、例えば、罪悪感は、善人ほど自己を苦しめます、

自分を責めて、裁き、罪や罰を与える仕組みになっています。

その苦しみより、自己を正当化して社会や他者の責任にした方が心理的にはずっと楽だったりします。

こうして、人間の内面の探究は、自分のせいになり、苦しみ、または他に責任を求めて、右往左往して。

結果的に、その善悪の判断による、法的な倫理的な道徳的な、または宗教的な観念により、自他に対しての、罪と罰を与えることにより。

根本的な問題に行き着くことがなく、こうして表面的な部分で「未解決」なままに、繰り返しているように、少なからず一般的にそうではないかと考えました。

これは内面的には、刑務所へ出たり入ったりしているのと少しも変わらないように思えるのです。

結局、人間の内面の探究は浅く疎かになり、悩み苦しみが生涯つきまとう仕組みになっているのではないか?

もし、罪と罰を自他に与えずに、心の内面の探究を行えば、こうした繰り返しの根本的な問題に行き着くことができるのではないか?と考えていました。

しかしながら、ここには「善信仰」という、いや「善信仰様」と言えるほどに。

伝統と権威のある「信仰」が私たち人間の遺伝子のレベルにまで染み込んでいるという現実問題に突き当たります。

善悪の判断は社会生活や共同体の、価値判断の源であるように思えます。

もしこれがなければ、今の社会生活の秩序は崩壊しかねません。

しかしながら、善信仰から出た善悪の価値判断は、善を尊ぶゆえに、それに悪を対立すると考えて、悪を排除し罪と罰の問題を連れてくることにより。

それが良い悪いは別として考察した結果、私たちは、内面の探究が疎かになっているのではないか?と考えています。