現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。
今回紹介するのは「国定難病を患い、生活苦になっております。要支援1だけの生活です」と編集部にメールをくれた、54歳の男性だ。

「学校に行きたい」と言うと殴られた
いつの時代の話? それとも小説の中の出来事? そう思ってしまうほど、タロウさん(仮名、54歳)の少年時代は壮絶だった。
7人兄弟姉妹の長男。新聞販売店を営んでいた父親に、中学2年生のときから朝夕刊の配達を手伝わされた。父親は柔道の有段者で、ささいなことで子どもたちを殴る蹴るしては、止めに入る母親を投げ飛ばしたという。タロウさんにとって、部活も友達付き合いも、別世界の話。学校は休みがちで、なんとか入った高校も、父親から集金や営業の仕事もこなすように言われ、夏前には退学させられた。
 
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「『家族のために子どもも働かないと食べていけない』というのが父の口癖でした。台風の日に自転車ごと倒れたことや、40度近い熱を出しながらマンションまで行ったこととか、新聞配達には、苦しい思い出しかありません。『学校に行きたい』と言っても、殴られるだけ。顔や頭が腫れて登校できないこともありました。

 
父は酒もよく飲んだし、外に女の人をつくっては、家にお金を入れないこともしょっちゅう。給食費の滞納はざらでした。DVなんて言葉もなかった時代、母は『私さえ我慢すれば、いつかは……』という希望にすがるしかなかったと思います。いろんな宗教団体に入ったり、出たりを繰り返しては、(父に負わされた)ケガや腰の痛みに耐えながら仕事に出かけていった姿を覚えています」
 
結局、両親はタロウさんが18歳のときに離婚。当時、母親が入信していた新興宗教の関係者が父親を取り囲み、なかば無理やりに届けに判を押させたという。
 

 

「父は離婚を渋り、しばらく母に付きまとっていました。下の弟たちはかなり年が離れているのですが、今考えると、父は次々と子どもをつくっては、母が別れられないようにしていたのかもしれません。最低な人間でした。でも、今は憎しみとか、恨みとか、そういう感情はありません」

父親の消息は、何年も前、窃盗で逮捕されたという連絡が、ある温泉街の警察から寄せられたのが最後。タロウさんは「今は生死もわからないし、関心もない」と淡々と話す。
 
とにもかくにも、20歳を前に再出発の機会を得たタロウさん。学歴などのハンデもあったが、数年間の工場勤務を経た後、希望していた編集の仕事を得ることができた。ゲーム雑誌などを発刊する小さな出版社で、やがてライター業も任されるようになったという。
 
ただ待遇は劣悪だった。何週間も、社内で寝泊まりすることが当たり前だったが、毎月の手取りはたったの16万円。次第に不眠や倦怠感などメンタルに不調が現れ、ある日、下着1枚で車道を歩いているところを、警察に保護された。覚えていたのは「相模湖で入水自殺する」という目的だけ。なぜ半裸になり、どうやって自宅を出たのかといった記憶はまったくなかったという。仕事にも支障を来し、5年ほど勤めた会社をクビになった。

 

[付き合っていた女性との間に子どもができた]

しばらく体を休めた後、交通警備などを行う警備員として勤務。正社員がちょっとしたミスで解雇されるなど優良とはいえない会社だったが、月収は約30万円と悪くなかった。
 

 

このころ、付き合っていた女性との間に子どもができたことをきっかけに結婚。子育てがしやすいという評判の近隣都市に引っ越すため、独学でパソコンの知識を身に付けると、収入水準は維持したまま、コンピューターの保守管理などを担う派遣社員へと転職した。

教育格差も、貧困、暴力の連鎖も何とか断ち切ったかのように見えた。しかし、新たなつまずきは夫婦関係のほころびから始まった。
 
タロウさんによると、専業主婦の妻はほとんど家事をしなかった。絵を描くことや、ミニチュア模型作りなどの趣味に精を出す一方で、万年床に、洗濯は1週間に1回、台所には汚れた食器が山積み――。話し合いをしても、それらが改められることはなく、口論のさなか、タロウさんは妻を平手打ちしてしまう。結局、タロウさんから離婚を切り出し、親権も手放すし、養育費も払うからと告げて家を出た。10年足らずの結婚生活だった。
 
妻の反対を押し切って離婚を決めた理由について、タロウさんは「罪悪感」だと説明する。「嫁さんに暴力を振るってしまった。実は、子どもが幼かった頃にも、一度、おしりをぶったことがあるんです。どちらもひどくたたいたわけではありません。でも、衝動的に手を上げていた。私も父と同じ種類の人間だとわかってしまったんです」
 

 

いつか、自分も父親と同じ仕打ちをしてしまうかもしれない――。その恐怖と不安に、打ち勝つことができなかった。「幸せでいてくれれば。私のことは、忘れてくれていればいいなと思います」。今は音信不通だという妻子について語るタロウさんの口調は、またしても淡々としていた。

離婚後、タロウさんの暮らしが安定することはなかった。月収30万円の派遣先は、派遣期間が3年を越えるという理由で雇い止めにされた。
 
新たな派遣先では、収入が半減。養育費の支払いは滞り、自己破産を余儀なくされたという。その後、業務委託契約に切り替えることで、収入はいったん持ち直したものの、再びメンタル不調に陥ってしまう。
 
取材で話を聞いたタロウさんは語彙(ごい)も話題も豊富で、立ち入った質問にも終始穏やかに答えてくれた。尋ねてみれば、派遣先などからの評判は悪くなかったという。タロウさんの人柄もあり、仕事自体は順調だったのだ。にもかかわらず、メンタルは悪化した。リストカットを繰り返し、前回と同じく夜道をさまよっていたところを、警察に保護された。
 

 

「カッターで傷をつけて血が出ると落ち着く。落ち着きたいからカッターを手にしてしまう」。タロウさんはそう言って、傷跡が何本も交差する左腕を見せた。
業務委託契約の更新を諦め、蓄えが尽きたころ、生活保護の利用を申請。ケースワーカーの勧めで精神科を受診したところ、「重度のうつ病」と診断された。

さらに、不運は続く。40代後半になったころ、脊髄を支える靭帯の一部が骨のように硬くなる難病「後縦靭帯骨化症」であることが判明したのだ。手術は成功したものの、下半身に麻痺が残った。現在、タロウさんは歩行が難しく、杖が手放せない。日々の暮らしは、毎月約12万円の生活保護で賄っている。

タロウさんは自らの半生をこう振り返る。
 

 

「(メンタル不調のたびに)自分は『ぐうたら病』だと思ってきたので、うつ病とわかってよかったです。ただ、うつ病と父親の虐待は関係ないと思っています。派遣社員だったときは、人並みに稼ぎもありましたから、貧しい生い立ちや学歴のせいでちゃんとした仕事に就けなかったわけでもない。難病は不運としか言いようがないです」

だから――。タロウさんは、自らの貧困は「誰のせいでもない」という。
 

 

[非正規労働は働き手のメリットがない]

はたして本当にそうか。私は専門家ではないので、貧困状態に陥るきっかけとなったうつ病と生い立ちの関係については言及しない。しかし、派遣や業務委託といった非正規労働は、タロウさんの生活を大いに脅かしたのではないか。
 
タロウさんは、勤続3年で待遇のよかった派遣先を雇い止めにされたが、労働者派遣法が派遣期間の上限を3年までとする目的は、雇用の安定である。同じ労働者を常態的に働かせるならば、企業にも直接雇用の責任を負ってもらおうという趣旨でもあり、3年を越える前にクビにしてよいということではない。
 
業務委託契約にしても、労災も時間外手当も最低賃金規制もない個人事業主契約である以上、実態が労働者であれば、働き手にとってのメリットは、まずないといっていい。
 
もし、タロウさんが正社員だったなら、いきなりの収入半減や、うつ病になったからといって即失業といった事態に至る可能性は低い。休職制度や傷病手当金を利用すれば、自己破産や生活保護以外の選択もできたのではないか。私が知る限り、現代の貧困の背景には、必ずといっていいほど、脱法的で、不安定な働かされ方がある。
 
そう指摘すると、タロウさんは、給与が高く満足していたので、自分が脱法的な働かされ方をしているという自覚はなかったという。ただ、同時に「正社員であることのメリットも感じなかったんです」と話す。
 

 

たしかにそうだった……。タロウさんが派遣社員になる前に働いていた工場や出版社、警備会社はいずれも正社員だった。しかし、ここでも、過労死レベルをはるかに上回る長時間労働や、サービス残業、安易なクビ切りは横行していたのだった。

取材中、タロウさんは「私は父と似ている」と繰り返した。父親は暴力を振るう一方で、海で溺れたタロウさんを必死の形相で人工呼吸したり、子どもの1人が幼くして亡くなったときに家族の誰よりも涙を流したりするような一面もあったという。
 
私には、タロウさんは暴力的な人間には見えなかった。ただ、ゆがんだやり方で“家族”に執着した父と、その父の二の舞になるまいと“家族”を遠ざけた息子と。親子の呪縛は、思うほど容易には解けないのではないかと思った。
 
うつ病の処方薬を飲みながら、漠然と死にたいと思う「希死念慮」をやり過ごす日々。不自由な体と、生活保護に頼る暮らしは「おそらく一生このままだと思う」と話すタロウさんは今、小説と短歌を書きためているという。
 
誰かを責めることなく、一貫して優しい語り口で話をしてくれたタロウさんの心の内を知りたくて、タロウさんが短歌を載せているネット上のサイトを訪ねてみた。先日、東日本に大きな被害をもたらした台風の後だろうか。こんな歌が詠まれていた。
 

「窓を打つ 激し風雨の 音は皆 我を責めると 思い止まらず」(^^♪