「私は、母にいじめられたんですよ」
―― 世間の田嶋先生へのイメージは「怒れるフェミニスト」ですが、実はとても明るい方なんじゃないかと思ってるんです。
田嶋 さっきもタクシーに乗ったら、「意外におとなしいですね」だって。みんなさ、私がいつも暴れてると思ってるの。タクシーの中で暴れるわけないよね(笑)。
―― それだけテレビの印象が強烈なんですね。そう思わせるテレビの「演出」についても伺いたいのですが、まずは田嶋先生のフェミニズムの原点について、お聞かせください。
田嶋 私は、母にいじめられたんですよ。母は戦後すぐ、脊椎カリエスという病気にかかって、長く生きられないと思ってたみたい。自分が死んだら、私が一人になってしまう。だから、私が早く自立できるように、非常に厳しくしつけられました。小学校から帰ると、母が寝たきりで身動きできないから、私はベッドの隣に座って勉強しなきゃいけないのね。教科書が暗記できないと、二尺ものさしでピシッと叩かれる。教科書を窓から放り投げられたこともありました。
―― 逃げようとは思わなかったんですか?
田嶋 逃げられなかったですね。逃げたら、お母さんの病気が悪くなると思ったから。でも、それだけしつけておきながら、「勉強ばかりできたって、女らしくしないとお嫁に行けないよ」とも言われました。
―― お母さまとしては、やはり娘には嫁に行ってほしかった?
田嶋 当時は、女の唯一の幸せは結婚でしたから。結婚できない女の人は陰口を言われて、世間からつまはじきにされたんです。子どもを産めないと実家に帰されたり、そんな悲劇ばかりでした。私は、生まれながら体がでかくて元気だったから、親はあわてたと思うんですよ。父はハンサムだったらしく、母も小さい顔でかわいかったから「おまえのような顔はうちの家系にない」って言ったんだよ。ひどいよねえ(笑)。
.. ―― 中学校に入ってからは、勉強にスポーツに何でもできたそうですね。
..
「女なんてメンスがきたら終わりだよ」
田嶋 中学時代は、私のルネサンスでした。絵でも書道でも作文でも賞をもらって、テニスも沼津市(静岡県)で一番になりました。私のいた合唱団が優勝したこともあります。将来の夢は、母の病気のこともあって、お医者さんをしながら小説を書くことでした。でも、そんなときに、尊敬していた先生から「女なんてメンスがきたら終わりだよ」って言われた。
―― 学校の先生までが、そんなことを言うんですか。女の人は、そうやって翼を折られてきたんですね。
田嶋 結局、女は何者かになってはダメで、限りなく小さくかわいくなくちゃいけない。女の役目は、男の人のしもべになることなんですよ。だから、「小さく小さく女になあれ」と育てられる。そうやって親や教師の言葉にがんじがらめにされました。でも、そんなこと言ったって、でかいものは小さくならない(笑)。無理に小さくなろうとすると病気になる。
高校は進学校に行きたかったんですが、進路を決めるころに私の初恋日記が父に見つかってしまった。そしたら、父の目の前で、日記を1枚1枚破って火鉢で燃やさせられました。
―― えっ、自分の手で燃やしたんですか?
こんな色気づいた娘を男女共学にはやれない
田嶋 そうですよ。挙句の果てに、親が学校の先生に相談して、こんな色気づいた娘を男女共学にはやれないというんで、高校は進学校ではない女子高に行かされました。そのとき、私の夢も死んだんですね。高校では、図書館に籠って本ばかり読んでました。そこで出会ったのが、社会運動家の神近市子さんや、日本女性で初めて国連代表になった藤田たきさん。神近市子が大杉栄を刺した話なんか痛快でしたね(笑)。
―― いわゆる「日陰茶屋事件」ですね。神近から経済的援助を受けていた大杉が、伊藤野枝とも恋愛関係になったことで、神近が大杉を刺して重傷を負わせた。
田嶋 社会主義だなんだと言ったって、すごく女性蔑視じゃないかと共感したんです。神近さんも藤田さんも津田塾卒だったので、私も津田塾に行くことにしました。
津田塾では、学部から大学院まで9年間過ごしていますが、そのときのことを「暗黒時代」だったと著書で書いていますね。何があったんですか?
津田塾では、学部から大学院まで9年間過ごしていますが、そのときのことを「暗黒時代」だったと著書で書いていますね。何があったんですか?
田嶋 自分の問題ですね。英文学を研究するようになって、先生に論文を評価されて、それなりに成果をあげてました。でも、もう一つ、研究が自分の肌とぴったりこない。卒業論文でD・H・ロレンスを扱ったときも、自分の書いた論文に結論が出なかったんですね。提出日前日の夜中まで書けなくて、先生が翌朝、心配して下宿を訪ねてくれました。「賞をもらえる論文なのに結論が出せなくてどうする」って先生をガッカリさせて、ものすごい敗北感。大学院に進んでからも、日本で英文学を研究することにどういう意味があるんだろう、と考え込んじゃって。私の内面が、ちっとも研究に直結しなかったんですね。結局は、自分の研究対象を女性学的視点で見る勇気がなかったことと、それをするための蓄積が不十分だったということです。だから、ずっと悶々として過ごしてました。
―― 先生にとってフェミニズムとの出会いはいつだったんですか?
46歳のとき、母親と和解できた理由
田嶋 気づかなかっただけで、ほんとは自分の中にあって、生まれてものごころつく前に出会ってたんですよ。自分と出会っていたというと、ちょっと変な言い方になるけど。もともと女の人の中に、あるいはすべての人の中にあるものなんですよ。「女らしくしろ」と育てられた子どものころから、人生が理不尽だと感じていたわけだし。私の場合、フェミニズムに関する立派な本に惚れ込んでフェミニズムがはじまったわけじゃない。自分で一つずつ闘いながら積み上げていったんです。だから、田嶋陽子流フェミニズムなんですよ。
―― 大学院を出てからはイギリスにも留学し、英文学者としてご活躍されます。そして46歳のとき、お母さまと和解されたそうですね。きっかけは何ですか?
田嶋 それは、恋愛の終わりですね。留学中に出会ったイギリス人の恋人と10年くらいつきあってました。イギリス人だから対等な関係が築けると思ってたんだけど、愛が深まってくると男の人の本音が出てくる。私を支配しようとするわけ。そのとき、デジャヴを感じたんです。後で分かったんだけど、彼の私の扱い方が母とそっくりだったんですね。それに気づいたとき、「あっ、これなんだ」と自分を苦しめていたものがわかった。それから私は彼に自己主張できるようになって、恋愛も終わりました。そしたら、母に対しても今まで言えなかったことが言えたんです。「お母さん、これは私の問題だから、私に決めさせて」。それが46歳のとき。
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大人になってからも、ずっとお母さまには正面きって反対意見が言えなかったそうですが、なぜ急に言えるようになったんでしょう?
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大人になってからも、ずっとお母さまには正面きって反対意見が言えなかったそうですが、なぜ急に言えるようになったんでしょう?
田嶋 私は、子ども時代のトラウマをずっと抱えてたんです。ときどき記憶喪失みたいになることもありました。でも、彼との恋愛関係の中で、母との関係を再体験したんでしょうね。その結果、母がこわくなくなった。自分を苦しめていたものが見えるようになった。DVを受けた女の人も、それがDVだと自覚しないと、次もまたDVをする男を選ぶでしょう。だから、抑圧に気づいたことで、ようやく母にも自己主張できるようになったんです。
私は、それまで女の人のことが大嫌いでした。女である自分自身のことが嫌いだったからです。でも、それからは心も体も解放されていきました。
―― ご著書では、「女性たちを縛りつけている抑圧の輪が見えたとき、私は母を許すことができた」と書かれています。その後、お母さまとの関係はどうなりましたか?
子ども時代の話をお母さまとすることは?
田嶋 母も馬鹿ではないですから、2度と私の人生を支配しようとはしませんでした。そしたら、自分一人の世界を見つけるようになって、ほんとにかわいいおばあちゃんになっちゃった(笑)。もしかしたら、私を支配することが生きがいだったのかもしれない。
―― 子ども時代の話をお母さまとすることはありましたか?
田嶋 NHKから「母と娘」をテーマにした番組の取材を申し込まれたことがあるんです。母は出てくれなかったんだけど、私がこういうことを話すねと母に言ったんですよ。子どものころ、どれだけ辛かったかってこと。そしたら、母はキョトンとしてるんです。そして、「そうか、おまえがそんなに苦しかったのなら、悪かったね」って言うんですよ。母にしてみれば、戦争の後遺症だとか、女としての苦しみだとかをたくさん抱えて、娘の私にあたってただけかもしれないけど、いじめの自覚はないんですよね。だから、母を責める気にはならないんです。
―― 失礼ですが、お母さまはご存命ですか?
田嶋 いいえ。92歳で亡くなりました。
次ページは:「生まれ変わったら、またお父さんと結婚したい?」「いやあ……」
「生まれ変わったら、またお父さんと結婚したい?」「いやあ……」
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「生まれ変わったら、またお父さんと結婚したい?」「いやあ……」
―― お母さまの人生を娘としてどう見ていますか?
田嶋 母は気の毒だったと思いますよ。私の父は60歳で早死にしたんですけど、戦後は病気の母をよく看病したんですよね。母は、父にすごく感謝してました。亡くなってからの3年間、毎日洗ったシャツを壁にかけて、ご飯をすえて、手をあわせていました。すごいと思いましたよ。でも、「生まれ変わったら、またお父さんと結婚したい?」と聞いたら、「いやあ、結婚だけは結構でございます」って言うの。だから、父には感謝してたけど、母の人間としての本音は違ったんですよね。
母は、新潟の大きな家に生まれて、他の人が木綿の服を着ているとき、自分だけ銘仙を着せてもらっていたそうです。それでも教育を受けさせてはもらえなかった。70歳を過ぎてからも、ずっと悔しがってましたね。あるとき、母が私の講演テープを聴いていたことがありました。ほんとにびっくりしましたよ。話が理解できたのかは分かりませんけど。母は自立したくてしょうがなかった、でもできなかった。その悔しさがあったんだと思います。
―― お母さまも女として生きることに苦しみを感じていたんですね。
田嶋 今でも忘れられないのは、母は体調が良くなると、台所に立つんです。あるとき、母の肩が震えてて、笑ってるのかなと思ったら泣いてるんです。「どうして泣いているの」って聞くと、「なんでお母さんだけが、こんな茶碗のケツをなでてなきゃいけないの」。その言葉は、一生私の中で生きてるんです。
私をいじめて苦しめた母でしたけど、46歳を過ぎてから一人の女性として見たとき、気の毒だったと思う。だから、母も私も同じフェミニストなんですよ。学問とか関係なく、自分の身から出た、魂の叫びとしてのフェミニストです。みんな自由に生きたいのです。