2016年、東京都内の病院で乳房の手術を担当した医師が、当該女性患者から準強制わいせつ罪で訴えられ、検察から懲役3年と求刑された事件は、今週2月20日、無罪判決となった。東京地裁はどのように判断したのか、解説する。(医療ジャーナリスト 福原麻希)
 
DNA量に関する
初めての判例
 この裁判の争点は、(1)被害者の証言の信用性(術後せん妄の有無と程度を含む)、(2)DNA型鑑定、および、アミラーゼ鑑定の信用性、だった。
 
(1)の被害者の証言の信用性について、判決文では「被害者の証言には疑問が残るが、決定的に否定することはできない」とした上で、「犯行があったとされる時間帯に被害者は麻酔の影響でせん妄だった可能性は十分あった」と判断した。
 
(2)については、検察が犯罪の立証として重要な根拠としていた「DNA鑑定の信用性」について、第三者が検証するための写真を含む記録やデータ等の資料と、検査試料(試料:検査や分析に用いる材料、今回はDNA抽出液)の廃棄等から、東京地裁は、「(証拠の)証明力は十分でない」と結論付けた。
 
 証拠の信用性とは、まず「証拠能力」として裁判で扱われる資格があるかないかが裁判官に判断され、その上で「証明力」として事実が証明できる価値が高いか低いかを評価される。
 
 本サイトの前回の記事では、病院で日常的に起こるせん妄の患者への対策が遅れている現状を報告したため(詳細は『乳腺外科医の「わいせつ事件」で求刑、医療現場悩ます麻酔の幻覚』を参照)、今回の記事では(2)について、特に「裁判では科学的証拠をどう用いるべきか」に焦点を当てる。
 
 これまでの裁判におけるDNA型鑑定では「DNA型が同一か」が争点となっていたが、今回は被害者の身体から採取された付着物に含まれる「DNAの量」に関する初めての判例となったからだ。
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また、今回の刑事事件について、当初、筆者はこれまでの医療に関する刑事事件の無罪判決(例えば、産婦が帝王切開時に死亡したことで医師が逮捕・起訴された福島県立大野病院事件、綿菓子を食べていた男児が転倒し、割りばしがのどの奥に突き刺さって死亡した杏林大学病院割りばし事件等)から、医療行為そのものが刑事事件に問われる難しさについて取材していたが、医療裁判に詳しい後藤貞人弁護士(大阪弁護士会所属)から「治療過程の過失が問題となる医療事故とは異なる」と指摘された。
 
 それでは、本訴訟の無罪判決とはどんな内容だったのか。
 
あなたは、どんな証拠なら
有罪を受け入れられるか
 今回の一連の裁判(13回)で被告人弁護団は、検察側の主張の根拠となったアミラーゼ鑑定とDNA型鑑定の信用性について、何度も問いただす場面があった。
 
 それは、もちろん被告人が有罪か無罪かを決定するための重要な役割を果たすからだが(だからといって、判決はさまざまな視点から総合的に判断されるが)、それだけでなくこの背景には、これまで歴史的に複数人の弁護士や鑑定人等が何度もDNA鑑定を含む「科学的な証拠の信用性とは何か」について指摘してきたこととも関連する。
 
 判決後の記者会見で、本訴訟の主任弁護人の高野隆弁護士は「裁判所は、科捜研(科学捜査研究所)の鑑定を極めて杜撰(ずさん)と強い表現で断じた」と話した。また、高野弁護士は、筆者の取材時、今回の裁判を振り返り、現状の司法のしくみの課題として「証拠採用のルールの厳格化」を強調した。
 
「裁判官は証拠のゲートキーパーです。ゲートキーパーの役割は証拠を厳選することです。しかし、日本の裁判所は証拠採用のルールが厳格でありません。本来、今回のDNA鑑定は排除されるべきでしたが、裁判長は証拠として採用しました」
 
 この点は、前述の後藤弁護士も「本訴訟では証拠採用手続きの適正さが問われた」と指摘する。
 今回の判決文では科捜研研究員に対して「誠実さに欠ける。職業意識の低さ」とも表現した。だが、そうだろうか。今回の事件の鑑定を担当し、証人として証言した研究員は、このDNA鑑定をルーティンでこなしていたような口ぶりだった。それでも、これまでは特に問題が起こらなかったが、今回は判決に大きな影響を与えるまでになった。
 
 つまり、これは個人の資質ではなく、市民に有罪を問う証拠を扱う組織に、社会の目が入りにくかったことが問題ではないかと考える。
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もし、あなたの家族や親しい人が被告人席に座ることになったとき、あるいは、裁判員裁判(*)に選ばれたとき、どんな証拠であれば有罪となっても納得、あるいは、受け入れることができるか、次の内容から考えてほしい(*注:本訴訟は裁判員裁判ではない)。
 
 今回、被告人医師の弁護士(以下、弁護人)は検察側証人に対する反対尋問で、乳房からの付着物の採取・移動・保管から鑑定までのプロセスについて、その手順の適切さを入念に確認した。
 
 例えば、「どんな状態の採取キットで、そのガーゼでどこから、どのように付着物を採取したか」「いつ、どんな袋にガーゼ片を入れ、その袋の表側にはどんな内容を記入したか」「いつ、だれが証拠資料の入った袋をどこからどこまで運んで、誰に渡したか」「科捜研では、いつどこでだれが資料の入った袋を受け取り、それはいつからいつまで、どこに保管されていたか」等、細かい質問だった。
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目的は、証拠鑑定のプロセスで他の微量な物質が混じったり、物質の劣化を招いたりした場合、結果に大きな影響をもたらすからだ。
 
 例えば、今回の唾液は口腔内細菌によって変性しやすい。このため、医学の実験では基本的に、採取した唾液はただちに冷蔵・冷凍保存する。
 
 移動の状況についても細かい質問が続いたのは、他の事件の証拠との取り違えやすり替えがなかったかを確認しておくためだった。
 ところが、事件の地元警察官から証言はあったものの、反対尋問では採取時の写真なし、保管時の写真なし等が明らかになった。それぞれの担当者がきちんと職務を果たしていれば、これまではいちいち客観的証拠を作成しておく必要はないということだったのだろう。
 
科学なら裁判期間内は
鑑定試料を残すべき
 
 弁護人はアミラーゼ鑑定やDNA型鑑定の信用性についても、細かく確認した。アミラーゼ鑑定では、アミラーゼ活性反応が陽性(青色になる)になったという写真はなく、鑑定書に「陽性」と記載があった。
 
 DNA型鑑定では、本訴訟でDNA量の数値の根拠となったデータ消去が問題視された。その理由はこういうわけだ。科捜研の研究員は乳房をぬぐったガーゼ片の付着物部分を半分に切って装置に入れ、DNA抽出液を作成した。
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今回は50マイクロリットルできた。このDNA抽出液を0.6マイクロリットル用いてPCR装置にかけたところ、元のDNA量は1.612ナノグラム/マイクロリットルとわかった。このとき、比較するデータ(標準試料の増幅曲線データ)を用いて、ものさしデータ(検量線)を作成することで、正確に数値を導き出す(図参照)。だが、今回、この2種類のデータが両方とも証拠として提出されなかった。
 
確かに検察側証人の証言通り、論文投稿では検量線データの提出は求められない。だが、検量線があるから、第三者による検証が可能になる。今回は数字だけがワークシートに記載された。
 
 あるいは、検量線データがない場合、再度、検査をやり直せばいいが、そのために必要な前出のDNA抽出液も廃棄された。
リアルタイムPCR機器。下方の引き出しに検体を入れると、自動で数値が表示され る
 
 このDNA抽出液の廃棄について、検察は「ガーゼの半分は残されているので、再鑑定は可能である」と主張する。検察側証人からも「再鑑定時はまったく触れられていないものを試料として使うことが大事」と証言があった。一方、大川裁判長は判決で「試料の残余(DNA抽出液)の保存は、ぜひとも必要だった」と指摘した。
 
 その理由は、前述したように唾液は変性し劣化しやすい。半分に切って残ったガーゼ片で再鑑定しても信用性に乏しいと判定される可能性が高い。
 
 一方、DNA抽出液ついては、国立の研究所研究員(理学博士)に取材したところ、「唾液が付着した状態のまま保管した場合、核酸(DNA・RNA)が壊れやすい。が、DNAを抽出後、精製してしまえば(精製:不純物を取り除く)、質は安定します。常温の研究室に置いてあっても、PCR解析の結果には問題ない。冷凍庫で保存すれば、年単位で質を維持できます」と言う。
 そして、これは科学者なら常識ともいう
 
 1997年、日本DNA多型学会による「DNA鑑定についての指針ー再鑑定の保障をめぐってー」作成時、「現場資料が微量で、全量を用いて検査せざるを得ない場合には、少なくとも資料から抽出されたDNA抽出液の残余は、たとえわずかでも保存されるべきである」という文章が削除・修正されたことがあった(*1)。
 
 当時の事情に詳しい人は、今回の取材で「当時、DNA抽出液は変性するから保存する必要はないと言われた」と答えた。2013年、司法研修所が発刊した資料(*2)にもDNA抽出液に関する記載はない。
 
 さらに、前述の研究所研究員は、科学者の視点でDNA抽出液の廃棄について、「絶対やってはいけないこと。特に、判決までは残すべき」と強調する。
 
「科学の世界では、論文投稿時、結果を出した元のサンプル(今回はDNA抽出液)は、必ず残しておくべきもの。論文が掲載されてからも、第三者から検証実験等の目的で申し出があった場合は提供しなければならないからです。このため、記録がなく、廃棄され追試ができない場合、科学者は何かおかしいと考えます」と話す。論文の統計データと同じ取り扱いで、広く社会と共有すべきものと考えられている。
 
 科捜研研究員が実験ノート代わりに書いていたワークシートの記載についても、「科学では書き換えができないよう、消せない筆記具で記載しなければなりません。研究による知的財産権を決めるときも実験ノートの記載内容が重要になります」と前述の研究員は話す。
 
 今回、法廷で検察と弁護団が何度も「科学とは何か」「再現の可能性とは何か」の定義で争った。
 科学とは「第三者が見ても納得のいくデータであること」「同じ試料、同じ手法で追試をしても、同じ結果が出ること」で、その積み重ねが信用性を高める。裁判長は全面的に弁護団の主張を認めた。
 
 一方、判決後の記者会見で被害者女性は「わいせつな事件が起きた根拠をつくるため、DNAを採取してもらいましたが、この判決に驚いています」と話す。
 
 被害者弁護人の上谷さくら弁護士も「性犯罪は客観的証拠がなくて、いつも苦労する。性犯罪として、あんなに(カーテンで囲まれた病室のこと)安全に犯罪できる場所はありません。この事件が無罪になったら、性犯罪はほぼ立件できない」と憤る。

鑑定に関わる保存と
廃棄の具体的ルールの必要性
 国の補助金研究(刑事法学分野)で「鑑定資料の保存と廃棄に関する手続の研究」に取り組んだことのある、獨協大学法学部の德永光教授も、このような場合は証拠を排斥すべきと指摘する。
 
「重要な客観的データが廃棄された場合、鑑定結果に対する客観的な検証が不可能になり、被告人の防御の機会が妨げられるだけでなく、裁判所の適正な事実認定も確保できなくなります。このため、証拠能力を認めるべきではないと思います」
 
 DNA型鑑定は、1992年から警察庁が全国の科捜研で導入以降、運用に関する指針が作成・改訂されている。だが、廃棄については口腔内細胞と血液資料の残余、データベースについて扱われているが、今回のようなデータやDNA抽出液等に関する具体的な記述はない。
 
 德永教授によると、アメリカ科学技術研究所(National Institute of Science and Technology:NIST)では、2013年、生物学的証拠の保存に関するハンドブックが作成されているという。
 
 このハンドブックによると、DNA抽出液は当然、残すものとされ、「冷凍保存すべきか、室温でも大丈夫か」が議論されているという。このため、「日本も廃棄の判断権者や廃棄手続きに関し具体的なルール化が必要です」と德永教授は提言する。
 
 今後ガイドライン作成時は、1997年の時のように、科学警察研究所・法医学者・法学者・民間の研究員・弁護士等の協議のもと、科学界の常識にしたがって作成されるべきだろう。