タレントの飯島愛さんが2008年12月に36歳の若さで亡くなって、ちょうど10年が経つ。クリスマスイブに突然の訃報。そのミステリアスな死をメディアが連日のように取り上げたが、その詳細は今でも多くの謎が残されている。
飯島さんは人気絶頂だった01年から03年までの約2年の間、「週刊朝日」で「飯島愛の錦糸町風印税生活」というコラムを連載していた。のちに『生病検査薬≒性病検査薬』(朝日新聞社)のタイトルで書籍化。当時あまりオープンにされることのなかった少女たちの「性感染症予防」を広く訴えていた。
連載中から亡くなる間際まで飯島さんと付き合いがあった担当編集者・福光恵が、親しかった芸能関係者、両親をあらためて取材。第5回は、大阪から上京して間もなく飯島さんと知り合い、「姉妹のような関係」を続け、死の前日とされる16日、連絡を取り合っていた女優の鈴木紗理奈さんだ。
「愛さんは、救いの神です。人を救う天才というか、上っ面じゃないねんな、全部が」
女優の鈴木紗理奈さんが飯島愛さんと出会ったのは、「紳助のサルでもわかるニュース」(1994~97年 読売テレビ)。18歳だった紗理奈さんが上京して初めて迎えたクリスマスの夜。飯島さんに「ショートケーキを買ってきて、一人で食べてます」とメールを送ると、「そんなしょうもないクリスマス過ごすなよ! おいで」と、自宅で開いていたクリスマスパーティに呼んでくれたという。
「それからは、すっごくかわいがってくれた。なんでも聞いてくれました。ホームシックになっていた私とよく遊んでくれたり、しょっちゅう朝まで話を聞いてもらった。話の内容? 恋愛話です。彼氏とけんかしたとか、こんなんされたとか言うと、愛さんは『わかった。今から襲撃しに行くか』って(笑)。もちろん襲撃なんてしませんけど、それだけで気が晴れました」
「愛さんは口が悪いけど、誰よりもやさしい。自分も愛さんのようなやさしい人でありたいなと思うようになりました。ほんまに人のために動く人で、相手のほしい言葉をあげる。自分のためじゃなくて、それが愛なんですよね」
自伝のヒット以降、飯島さんが「めっちゃ忙しくなった」ことで、何年か会わない時期もあったという。だが2007年に飯島さんが芸能界を引退する前後から、ニューヨークに旅行に行くなど、姉妹のような関係が復活した。
「引退後はいろんなことをやりたいと言っていたけれど、『手始めは(今で言う)ユーチューバーになる』なんて言っていたこともあった。『きっとそういう時代になる。テレビに縛られているのはイヤだ』とも。当時、『レッツゴー!陰陽師』というダンス動画が流行っていて、そのビデオを録りたいからとお願いされて、どっかの廃墟に白装束を着て行って、ダンスしている動画を友達と録らされたこともありました(笑)。結局それはYouTubeには上げなかったですけど」
飯島さんの連載をまとめた『生病検査薬≒性病検査薬』には、こんなコラムも掲載されていた。
<<いいなあ、今の子供たちは。小さいときからビデオカメラがあって。私の子供のころの思い出は全部静止画。やっぱり動く絵は魅力的だよね。そのせいか、私は若い頃からビデオを撮るクセがあります。お誕生日とか、パーティ、旅行、ボウリング大会、そして好きな人とのデート。はっきりいってそのころ、今みたいにちいさくないビデオカメラを持って出かけるのはめんどくさいし、観光客丸出しでカッコ悪くはあったけど、でも今は思い出が残ってすごくよかった。ただビデオを撮るほうに夢中になって、ちゃんと肉眼で見て、五感を使うっていうことを忘れていたかもね>>
(「ビデオカメラ」より)
またこのころの飯島さんは、アニメの原作小説を書いて、映画監督の押井守さんに持ち込んでいたようだ。紗理奈さんも完成途中を読ませてもらったというが、その作品は没後の2010年、映画監督の押井守さんの監修で、『Ball Boy &Bad Girl』(幻冬舎)という小説になって発売されている。
こうした創作活動に加え、コンドームやアダルトグッズを扱う事業の立ち上げなど、さまざまなこと全部が同時進行で進んでいた。資金を集めるため、毎日いろんな会社の社長に会う飯島さんを、紗理奈さんは覚えている。
「新会社で売り出す予定だったコンドームも、たくさんもらいました。コンドームを持つことも恥ずかしいことじゃないし、ラブグッズも普通の女の子が気軽に手に取れるようなオーバーグラウンドなものにしたいと言っていましたね」
飯島さんが手を差し伸べるのは、いつも弱い人。
「私も愛さんに助けてもらった一人ですが、いつもマイノリティの味方だった。理解者が少ない人や、人と同じように生きられない人をかわいがったり。一方で人の悪口を言ったり弱い者いじめをする人は、ほんまに許さなかったんですよ。私が『あの子って、こうだから』と悪口を言ったときも、怒られたことがある。『知らないでしょ? あの子も苦労してんだからさ』って。悪口を言う人や権力を振りかざす側の人には食ってかかっていき、正面で戦っていた印象。すごい人ですね。だからみんな、愛さんが大好きだったんだと思います」
かと思えば、飯島さんを張り込んでいた写真週刊誌の記者に「寒いだろ。今日も何も撮るもんないぞ。紗理奈といるだけだから」と、スープを差し入れたりもしていたという。コンビニの店員にも「頑張れよ」と声をかけたり、紗理奈さんにとっての飯島さんは、「口は悪いけど、愛のかたまり」だった。
そんな飯島さんと最後に連絡を取ったのは、2008年12月16日。亡くなったとされる17日の前日のことだ。疲れていたのかこの頃には、「いつも愛さんに話を聞いてもらう絶対的な妹」であったはずの紗理奈さんに、逆に飯島さんが相談を持ちかけるようなことも増えていた。この日も「疲れたからマッサージ行きたい。付き合って」というメールをもらったが、その日、ひどく疲れていた紗理奈さんは「もう寝ます」と断ってしまう。
「あんたは強いから大丈夫。スーパーウーマン」
その後返ってきたそんな不思議なメールが 飯島さんからの最後のメッセージとなった。
「ほんまにおらへん人やと思う。あんな人、もう出てこないと思うから。メディアの人はこれから先もずっと、愛さんのことを伝えていってほしいです。やっぱり他の人とは違うんです。してきた苦労も違うと思う。泥水もすすってきたやろうし、遊んだ数も半端ないやろうし。ほんまに振り切って生きた人だから」