幼少時代、貧困だった人間にも、苦労を笑顔に変えるご馳走があった。母が、父が、祖母が作ってくれたその料理は、質素でありながらも、彼らにとって忘れることのできない思い出として残っている。そんな「貧困飯」を、悲しくも愛情に満ちた数々のエピソードとともに紹介する感動企画。
飽食の時代といわれる昨今とは違い、昭和の食卓には貧しさに抗うべく手作り料理のアイデアが溢れていた。世代ごとに異なる貧困飯。当時の世相と合わせて振り返ってみる。
◆「親戚の家族の残りを姉と分け合って……すいとんは、本当にご馳走でした」
沼田理恵さん
「親戚の家族の残りを姉と分け合って……すいとんは、本当にご馳走でした」
沼田さんが物心ついたときには、母親がおらず、「農家の納屋」で3歳上の姉と暮らしていたという。
「2人とも学校に行ってなくて、ひらがなを覚えたのは13歳でした。姉が、棒で地面に書いてくれたのを覚えました」
いまなら施設に保護されているはずだが。
「父親がいたのでほっておかれたんだと思いますが、父は旅役者をやってて、ほとんど帰ってきませんでした」
父親は時折、まるで娘たちの生存を確認するように現れたという。
◆毎日、近所の畑の野菜やミカンや柿を盗んでました
「そのとき、私たちを見て顔をしかめるんです。『お前ら臭いな』って。銭湯代を渡してまたいなくなる。銭湯には行かずに川で体を洗って、浮いたお金で食べ物を買いました。姉が『銭湯に行ったことにしないと、このお金までくれなくなる。そしたら死んじゃう』って。普段は、近所の畑の野菜や、ミカンや柿を盗んで食べていました」
周囲は、そんな姉妹を哀れんで、盗みを怒るどころか、握り飯を恵んでくれることもあったという。そんな生活も10歳の頃に父親が失踪し、親戚の家に預けられたことで終わる。
「お手伝いをしないとご飯を減らされました。でも頑張って手伝えば卵かけご飯にしてくれてね。あと、姉は学校に行くようになったけど、私は学校に行かずに家の手伝いばかりしていました。町で売る用のドジョウを川で獲ると、おばさんが喜んでくれてキャラメルを一個くれるの。それが嬉しくて、毎日ドジョウ獲りをしていたなあ」
預けられた親戚の家もまた、貧しかった。
「この家のご馳走はすいとんでした。大根の菜っ葉を入れて醤油か味噌で味つけしたすいとんなんですが、親戚の家族は顔をほころばせて食べていました。私たちは、その食べ残りをもらうんです」
映画『火垂るの墓』のような環境だが、沼田さん姉妹は、極貧生活のなかでたくましく生き抜いた。
「すいとん、おいしかったなあ。親戚の人もお団子、私たちの分も残してくれていましたし。すいとんを食べると、明日も頑張るぞ、いっぱいドジョウを獲るぞっていう気になるんです。いまでもたまに作って食べるんですよ。すいとんは、私にとって『幸せの味』なんです。きっと、これが『母の味』なんだろうなって」
★沼田さんの貧困川柳『父が逃げ 姉と二人で よく生きた』
― [泣ける貧困飯]を再現 ―