ぽつぽつと雨が降ってきたかと思ったのは少しの間だけで、すぐにばらばらと大きな水玉が地に降り注いだ。私は静かな雨の方が好きなのだが、空はどうやら私の思いを汲んではくれない様子だ。

雨なんてただの天気であって、少し湿気を伴うのが鬱陶しい、それだけの存在だと思う。
しかし私の横に座り、机に頬杖を付いて外を見る『雨』は外の騒がしさとは無縁の存在で、他の物とは違う静寂を伴っていた。表情はいつもと同じように堅い。少し大きめの灰色のカーディガンから覗く華奢な腕は、複数の赤黒い傷がある。それは他人に見せられるような安いモノではない。この傷を見せて、一体何人が正気を保っていられるだろうか、と思うくらい痛々しい。
だがこの世界から切り離されているように端正な顔は、時折私の心をざわつかせる。
そして不意に、雨の手が窓に伸びた。腕の傷とは逆の綺麗な指が、窓を滑っていく。
あぁ、綺麗だ。
 
この瞬間、この一生の間の一瞬だけは時間がゆっくり流れている気がした。まだ十六年と少しの経験しか入ってない脳味噌で。こんな機会は何時だってあるはずなのに。
私は手を止めてその指の動きに魅入った。
 
雨だって、私と同い年で、同じ女の子だ(これを言うと雨は怒るのだろうけど)。でも、雨の雰囲気は私の子供じみたものとは違っていた。
 
「…….何時まで僕の指を見ているつもり?」
 
雨が手を止める。しかし振り向く事はなく、ガラスに映った私の顔をじっと見つめてきた。私も半ば無意識にその視線を追う。
ガラス越しに見える自分の顔は、少し憂鬱そうだった。寝不足も祟って、より不気味さを演出している。因みに昨日は寝ていない。一分たりとも。
雨の一人称が僕であるのは通常運転だ。大学生になったら私にでもなるのかな。絶対無いだろうけど。
 
「指は見てないよ、私が見てたのは外。雨が降ってきたなぁってぼんやり考えてただけ」
「そんなに嫌なら、雨なんて気にしなくていいのに」
 
雨水が跳ね返るように、ぴしゃりと言い返されてしまう。
今言っていたのはどっちの雨なんだろう。
私が言った嘘を雨は見破ったのだろうか。
 
一気に二つの疑問が浮上してきたが、私の頭では同時に思案し解決できそうにもないので雨とともに排水溝へ流した。あ、もちろん外の雨の方ね。
 
それから、二人とも黙って外を眺めた。雨が企画したこの勉強会も雨に流されたようなので、昔を思い出す事にした。
確か初めて雨に会った時も、天気は最悪だった。
 
中学一年の四月、桜はもう散っていたと記憶しているが実際の所は分からない。まあそんな時期の放課後に、私は図書室で参考書を開いていた。小学生の頃から勉強するのは好きだったし、中学校の勉強についていけるか不安だったからだ。

というかぶっちゃけると、この下りは全くいらない。思い返していただけで。
話の腰を最大限折ってから元に戻すと、その参考書を読んでいる途中でぱらぱらという音が聞こえてきたのだ。傘を持って来ていなかった私は慌てて本を片付けて図書室を出たが玄関に着いた時には既に遅く、雨はかなりの勢いで降りしきっていた。
 
どうするか困っていた私に不愛想に傘を貸し.......あれ。
そういえば、その後どうなったんだっけ。
肝心な所を忘れてしまった。

続きを思い出せずにふと我に帰ると同時に、雨はしみじみと口を開いた。
「時雨」
これは私の名前、だと思う。今降ってるやつじゃなくて。
 
「うん」
「雨だ」
「うん.......?そうだね」
「今日は雨の日だよ」
 
なるほどな。言いたい事がだいたい読めた。
 
「うん、それで何がしたいの?」
「.....そろそろ帰ろう、途中に本屋にでも寄って」
 
それが、雨なりの我が儘だった。私と一緒に帰りたいらしい。
でも、残念だが今日の私はそういう気分ではなかった。
 
ため息を吐いた後、答えた。
 
「ううん、ごめん。そのお誘いは断らないといけないの」
 
断られると思っていたはずもない雨が、当然ながら目を丸くした。私はそれを見てなんだか嬉しくなった。
 
「傘、持ってきてないでしょ。私も持ってないから、家まで一緒に走って行かないと。」
 
雨が、珍しく口元を緩ませた。
 
 
途中で雨宿りもする事なく、街路樹のある道を走って行く。
 
昔と同じ、この道を。

全て思い出した、あの時。
 
あぁ、あの時に雨が降っていて本当に良かった。
あれ以来私が雨を見ない日はほとんど無くなり、こうして今、二人で雨に濡れられるのも、きっと。

あの時の、〝雨〟のおかげだ。
 
 
家までもう少し、という時に雨がぽつりと呟く。
「雨、止まないね」
 
その言葉に少しだけ微笑む。なんだ、雨は私と一緒で、まだまだ子供じゃないか。
「止まない雨はないよ」