「お尻だって洗ってほしい……」
戸川純が出演したTOTOのCMが流れたのは1982年のこと。どうやらこのあたりから、シャワートイレ(ウォシュレット)の普及が急速に進んだようだ。
今では多くの家庭はもちろん、企業や公共施設でもシャワートイレが設置されている。
「お尻を洗える国・ニッポン」の豊かさ
しかし、海外に目を転じると、日本ほどの普及は見られない。そこそこの高級ホテルでも設置されていないところが多く、公共施設においてはまず期待できない。
海外旅行に出かけた時、旅行の終盤は排便を我慢し、日本の空港に着くとすぐに「トイレ」に駆け込む、という人もいる。そして、空港のトイレの便座に腰掛け、「お尻を洗える国・ニッポン」の豊かさをしみじみ実感する、という人もいる(筆者です)。
ただ、昭和40年生まれの筆者は「シャワートイレのない時代」を経験している。その気になれば、紙だけで生きていくこともできるだろう。
しかし、シャワートイレが普及してから育った世代の人には、あるいは年配者の中でも、シャワートイレの利便性に依存しすぎてしまうと、「紙だけの生活」に馴染めない人もいるようだ。
東南アジアへの出張のたび、肛門周囲を損傷させて帰国する
Kさん(26)は、物心がついた時にはすでに、家のトイレにはシャワートイレが設置されていた。小学校と中学校のトイレは「紙だけ」だったが、そもそもその時代は学校で排便(大のほう)をすることがなかった。
高校に入ると学校で便意を催すこともあったが、先生の目を盗んでシャワートイレの設置してある来客用トイレを使うなどして、何とか凌ぐことができた。そして、大学のトイレにはシャワートイレがあった。
早い話が、「排便後のお尻の洗浄」に困ることなく大人になった世代なのだ。
そんな彼が今、窮状に喘いでいる。
大手物流企業に入社した彼は、年に何度か海外、特に東南アジアへの出張がある。一度行けば1~2週間は帰れない。そして毎回、肛門周囲を損傷させて帰国するのだ。
「Kさんのような人はとても多いんです」
と語るのは、東京・赤坂見附にある肛門疾患専門クリニック「マリーゴールドクリニック」院長の山口トキコ医師。詳しい事情を聞いた。
「“シャワートイレ症候群”と呼ばれる病態で、症状の出方は様々です。排便後のお尻を水や温水を使わず、紙だけで拭き取ることに慣れていない人は、必要以上に強く擦るので、それで出血を招くことがあります。
また、何度も繰り返し擦ることで“痒み”を招くこともある。当人は、痒いのは便が付いているからだと考えて、さらに何度も紙で擦る。でも実際は擦り過ぎることで肛門の皮膚が炎症を起こして痒くなっているだけなんです」
“弱い痒み”は、帰国するまで持続する
Kさんが出張で泊まるホテルにも、あるいは現地法人の事務所にもシャワートイレはない。彼は仕方なく、なるべくホテルで排便し、紙で拭けるだけ拭いた後シャワールームに移り、ボディーシャンプーで肛門周囲を手洗いし、シャワーで流す――という工程を踏む。
紙で拭くだけの時よりはマシだが、それでも違和感はあるという。シャワートイレの時には感じない“弱い痒み”は、帰国するまで持続する――とも。
これに対して山口医師はこう指摘する。
「多分に精神的な要因が関係しているんです。軟便でもなければ、紙で拭きとるだけで汚れは落とせるのに、“洗わないと汚い”という思い込みの強さが、痒みにつながっていく。元々神経質なタイプの人が“お尻を洗えない環境”に身を置くことでストレスを感じ、お尻の周囲も神経が過敏になってしまうのです」
山口医師によると、こうしたストレスはお尻の痒みだけでなく、下痢や便秘といった消化器症状や、“排便しなくて済むように”という思いから食欲不振に陥るケースまであるという。
海外に出かけることが決まったら、出発の少し前からシャワートイレの使用を控えて、「紙だけの生活」にお尻と自分を慣れさせておいたほうがいいのかもしれない。
“お尻を温められないこと”のほうが問題は大きい
一方で、シャワートイレが不可欠な人もいる。「痔主」の皆さんだ。
こちらは精神的な問題ではなく、排便後に洗浄できないと困ることになる。
しかし、実際には“洗浄できないこと”が問題なのではなく、“お尻を温められないこと”のほうが問題は大きい――と山口医師は指摘する。
「痔、特に内痔核(いぼ痔)が排便時に脱出する人は、温水で患部を温めることでうっ血を防ぎ、症状を安定させることができます。普段シャワートイレで温水洗浄している人が、トイレットペーパーだけで拭き取ろうとすると、症状の悪化を招く危険性が高まります」
こちらも当然、排便のたびにストレスを抱えるようになる。ストレスが便秘を呼ぶのは前出のKさんと同じだが、痔主の人はその先に恐怖が待っている。
「便秘の人が排便する時には便が硬くなるので、痔の人は余計いきんでしまい、排便痛を招きやすくなるのです。最悪の場合は出血することもあります」
山口医師によると、内痔核の人がシャワートイレのない地域に旅行する際に取るべき対策としては、つねにお尻や腰を温めること、に尽きるという。
「日中は腰やお尻をカイロで温めて、もしホテルにバスタブがあるなら1日に1回はお湯に浸かって腰とお尻を温める。それだけでも肛門のダメージは小さくなります」
シャワートイレの有無が、えらく深刻な問題に発展してしまった。
肛門は、あなどれない……。
生活を豊かにする文明の利器も、依存しすぎると人間を弱くすることがある――。今回はそんなお話でした。