―あの頃の二人を、君はまだ覚えてる...?
誰もが羨む生活、裕福な恋人。不満なんて何もない。
 
でもー。
幸せに生きてるはずなのに、私の心の奥には、青春時代を共に過ごした同級生・廉が常に眠っていた。
人ごみに流され、都会に染まりながらも、力強く、そして少し不器用に人生を歩む美貌の女・里奈。
運命の悪戯が、二人の人生を交差させる。これは、女サイドを描いたストーリー。
派手な女子大生生活の後、総合商社での理不尽な社会人生活に疲弊した里奈は、7つ年上の直哉と結婚したが、仮面夫婦に陥ってしまう。
そんな中、里奈は廉の結婚式に呼ばれ、彼への友情が変化し始める。そしてサークルの同窓会で再会し、ついに廉と結ばれてしまう。

―今日の夜まで東京にいるから、もし会えたら連絡してー
昨夜、ベッドの中で廉に囁かれた言葉が耳にこびりついて離れない。
廉はまだ、あのホテルの部屋で一人眠っているだろうか。
時刻はもう昼近く。すっかり目は覚めているのに、身体中に染み込んだ彼の余韻を味わっていたくて、私はなかなかベッドから起き上がれずにいる。
 
「リナ、いい加減に起きろよ。ランチどうする」
すると突然、夫の直哉の怒りを含んだ声が寝室に響いた。
 
「...ごめん、今何か作るから...」
「いいよ、どうせ二日酔いだろ。その辺に食いに行こう。はやく支度して」
返事をする前に、ドアが大きな音を立てて乱暴に閉まった。
 
私は一人ワザとらしく溜息をつきながら、ゆっくりと起き上がる。
今まで浸っていた甘い感情から一転、心の中が夫へのギスギスした対抗心で染まっていく。
直哉が浮気をしても、連絡なく出張の日程を延ばしても、スマホの中で知らない女とイチャついたLINEを交わしていても、私の心は冷えて麻痺するばかりで、こんな感情を持ったことはなかった。
それなのに。
 
自分が他の男と寝た途端、夫への激しい嫌悪感が目覚めるのは不思議だった。
これまで浮気を重ねてきた夫・直哉の、里奈への監視が始まる...
 
危険な覚悟
連れて行かれたのは、「グランドハイアット東京」だった。
直哉はご自慢のポルシェをホテルのエントランスに停めると、すでに顔馴染みらしいホテルマンと笑顔で挨拶を交わしながら車のキーを預ける。
しかし私に対しては不機嫌な態度を崩さぬまま、無言で『オークドア』へ向かった。
 
「これからジム行くけど、夜には戻るから」
ステーキがずっしりと挟まったサンドイッチを前に、直哉は高圧的に言った。
彼はこのホテルのジムの会員になっている。仲の良い経営者仲間との社交場にしたり、浮気相手の女をビジターとしてスパに連れ込んだりしているのだ。
 
そして直哉の言葉は、おそらく報告ではなく指示だった。今夜は家で大人しく夕飯を作れ、という意味の。
―今日の夜まで東京にいるから、もし会えたら連絡して。
 
だが、私の耳には再び廉の言葉が蘇る。
先ほどから、時間が気になって仕方がない。かと言って、直哉に時計やスマホを気にする気配を悟られる訳にもいかず、どうにも身動きが取れず焦りばかりが募る。
廉は今夜、またシンガポールに戻ってしまう。今この時間を逃したら、またしばらくあの肌に触れることは叶わないのだ。
 
「あの...ごめん。私、今夜もちょっと用事が...」
「...は?さっき朝帰りしたばっかりだろ。また遊びに行く気かよ」
直哉は吐き捨てるように言うと、思い切り私を睨んだ。しかし、ここで素直に引き下がることはできない。
 
「夕飯なら作っておくから。昨日は同窓会だったけど、今日も前々から決まってた未祐の30歳の誕生会なの。直哉、元々は出張の予定だったでしょう?だから私、幹事を引き受けてて...」
「それ、嘘じゃないよな?」
浮気性の男に限って、女に対して疑り深く、鋭い勘が働くというのは、恐らく事実なのだろう。
直哉の強い眼光を真正面から受け止めたとき、ほんの少しでも気が緩めば怯えが顔に出てしまいそうなのを必死で堪えながら、私は覚悟を決めた。
 
この先何があっても、自分の夫に平然と嘘を貫き続ける覚悟を。
 
「やだ、何言ってるの?嘘ついてどうするのよ。何なら、未祐に電話でもする?」
私は呆れ笑いを浮かべてスマホを差し出したが、その手が震えないように全神経を集中させる。
ーお互い、ある程度の自由があってもいいー
そう私に言い聞かせたのは、紛れもない直哉本人だ。仮面夫婦生活はすっかり板に付いているし、私が引け目を感じる必要なんてない。
 
「...わかった。朝帰りはやめろよ」
そして、ようやく夫がそう答えたとき、一切の怯えや躊躇は、煙のように私の中から消えていた。
廉に会いたいと焦るあまり、里奈が犯したミスとは...?
 
理性を失った人妻が犯した、愚かなミス
「未祐、お願いがあるの」
直哉の夕飯を用意し、廉の元に向かうタクシーの中、私は急いで未祐に電話を入れた。
 
「今夜、未祐と一緒にいることにしておいて欲しいの。お願い」
半ば開き直ったとはいえ、万が一の際の保険は必要だ。私は時間に追われながらも、学生時代から何度も悪巧みを働いた彼女に協力を得ようとした。
 
「どうしたの?珍しいね、里奈。何かあった?」
「うん...。大したことないんだけど...、ちょっと...」
とにかく早く廉に会いたい。そう焦るあまり、特に口実も考えていなかったことに気づく。もちろん正直に事情を説明できるはずもなく、私は無様にも口籠もってしまう。
 
「...廉くん、でしょ?」
しかし未祐は、そんな私の心の中を呆気なく見透かした。
 
「えっ...」
「やっぱりね。そんな事だろうと思ったよ。オーケー、もちろん大丈夫よ。何かあった時は任せて」
悪戯っぽく笑ってくれた彼女には、感謝しかなかった。私は「ありがとう」とだけ答え、電話を切る。
後から思えば、何と愚かな行為をしたのだろう。
 
あれほど無防備に人に頼るなんて、あまりに浅はかだったとしか言いようがない。
でもあの時の私は、10年越しに結ばれた廉との熱に浮かれていて、完全に冷静さを失っていたのだ。
人の口に、戸は立てられない。そんなことは、もっと若い頃から嫌というほど分かっていたはずなのに。

結局、私が廉と会えた頃には、日が暮れていた。
再びホテルの一室に足を踏み入れ、廉の姿を視界に入れた途端、これまでの緊張が一気に解けて安堵に包まれる。
 
「ごめん、遅くなって。夫が出張を早めて帰って来ちゃって...」
そう説明し終える前に、私はすでに彼の腕の中にいた。
 
21時には羽田に向かう廉と私に残されたのは、ほんの少しの時間。
次はいつ会えるかも分からない。時間に迫られた二人に、余計な言い訳も建前も必要なかった。
あるいは、この脆い状況で下手に会話を交わそうものなら、一気に重い現実に迫られることを、お互い本能的に避けていたのかもしれない。
しかし、ひとしきり抱き合ったあと、廉は私の髪を撫でながら静かに言った。
 
「...実はさ、フライト、朝に変更した」
「...どうして?」
「なかなか連絡来なかったから。...良かったよ。もう一度ちゃんと会えて」
シーツに顔を埋めた廉の、低くくぐもった声を聞くと、胸に甘酸っぱい感情が込み上げる。
 
「...奥さん、大丈夫なの?」
「...そっちは?」
そうして顔を合わせると、私たちはまた吹き出してしまった。
 
不思議なほど、“悪いことをしている”という感覚はなかった。
こうして肌を重ねたあとでも、私たちはまだお互いにどこか“友だち”の感覚が残っていて、今のこの状態は単純に「収まるべく場所に収まった」と思えたからだ。
 
直哉も廉の奥さんも、単なる外野に過ぎないような気がしていたし、面倒なことは一切考えたくなかった。
この時の私の願いは、たった一つ。
―廉と一緒に、このまま朝まで眠りたい。
ただ、それだけだったのだ。