人が1年生きるために使っていいお金は一体いくらか? そんなふうに「いのちの値段」を問われたら、あなたはどう答えるだろうか。
「いのちの値段」はいくらか?
「いのちの値段」などという言葉を聞いて、ぎょっとした方も多いのではないかと思います。しかし、しぼみゆく経済の中で高齢社会を迎えた日本の医療において、この議論は欠かすことができません。
じつは医療経済の世界では、その目安が決まっている。新刊『医者の本音』が発売2週間で3刷2万部と話題の現役医師・中山祐次郎氏が、「コスパ」を重視しつつある医療業界の現状を明かす。
「いのちの値段」などという言葉を聞いて、ぎょっとした方も多いのではないかと思います。しかし、しぼみゆく経済の中で高齢社会を迎えた日本の医療において、この議論は欠かすことができません。
まずは、こんなたとえ話から始めましょう。
あなたは今70歳で、大腸がんにかかってしまった。 手術や放射線の治療はできないと言われ、選択肢は抗がん剤だけになった。抗がん剤の種類の中で、よく効くがすごく高価なものがあった。
この薬を使った同じ大腸がん患者さんのデータからは、あなたの寿命はおよそ1年半のところが2年に延びるそうだ。しかし、2年間ずっと使っていなければならず、1ヶ月当たり薬は100万円の値段がかかる。2年で2400万円だ。
そこで高額療養費制度という制度を使えば、あなたが支払うお金は1ヶ月に9万円で済む。これから生きられるだろう期間の2年だと216万円だ。
あなたの年収は350万円だが、蓄えが1000万円あり、2年で216万円ならなんとか払えそうだ。副作用もそれほどないと聞いている。
──さて、あなたはどうしますか?
半年のいのちの延長を得る代わりに、あなたは216万円を支払わねばなりません。
この金額を払って頑張るか、薬は無しで治療をするか。
実際にこういうシーンは、私の外来で多々あります。薬の代金も、年収も貯蓄も非常にリアルな数字を出しました。もちろん最終的に治療を選択するのは患者さんなので、じっくり考えていただきます。そして、ほとんどの方は「この額であったらなんとか払ってでもその薬で治療をしたい」という選択をなさいます。
ここで、2400万円が216万円に値引きされていることに注目してください。実に91%もの値引きです。9割以上の値引きなんて、なかなかないですよね。
値引きは、「高額療養費制度」という制度に基づいて行われています。支払うのは「保険者」です。このケースでは、「保険者」が肩代わりするお金は、2400万−216万=2184万円です。かなりの高額になります。
「保険者」といわれてもピンと来ない方が多いかもしれません。これは、公的保険事業の運営者のことです。では、運営者の財源はどうなっているのでしょうか。実際には保険ごとに多少の違いがあり、年齢ごとにも異なっていますが、ざっくりいえば約3割は公費、それ以外は被保険者(保険に加入している人、つまり私たちのことです)が支払った保険料になります。
ですから、お金を払っているのは「日本に住む人々」ということになります。みんなで医療費を負担して、重い病気の人にかかるお金の負担をなるべく減らす、というのがこの保険の理念なのです。
では、ここでもう一度、質問です。この額をみんなで負担してでも高額な治療を受けてもらうべきでしょうか?
こう尋ねると、多くの方が「みなで負担して、治療を受けてきてもらうべき」と答えるでしょう。
では、次の質問です。
ちなみに、1092万円で10万人だと一兆円を超えます。大変な額になってしまいました。これはどれくらいの額でしょうか。日本の医療費は一年で40兆円ほどですから、そのうちの2.5%になります。この超高額を、大腸がん患者さんだけで使ってしまっていいのでしょうか。大腸がん患者さんは今実際にどんどん増えています。
もう少しシンプルにすると、
「70歳の大腸がん患者さんが、半年寿命が延長する可能性のある薬を使うため、みんなで1年に1092万円を負担してもいいのか」
という疑問になります。 このシナリオの問いを言いかえると、
「ある人が1年長く生きるために、使っていいと思える金額はいくらか」
という疑問になりますね。
実は、これは医療経済の世界では、いくつかのコンセンサスが出ています。それは、
「ある人が1年、元気な状態で生きるために使える額は、5万ドル」
医療費の崩壊危機
「完全な健康状態で1年間生存すること(1QALY)を可能とする、医薬品・医療機器等の新しい治療法が開発され、その治療法に係る費用の総額が X 円であるとき、公的保険から支払うべきと考えるかどうかを「はい」又は「いいえ」の選択肢で尋ねる」
結果は、おおむね500万円前後でした。すでに費用対効果について13品目での調査が始まっています。13品目とはC型肝炎の治療薬4種類、オプジーボなどの高価な抗がん剤2種類、そのほか、脳深部刺激装置やステントグラフトなど治療に使う機械・道具で。
これから私たちが迎えるのは、限られたお金を最大限有効に使わなければならない時代です。そこでは、冷徹に費用対効果を見て、コスパの悪いものは使えないとはっきり線が引かれることになるでしょう。それはすなわち、いのちにはっきりと値段がつく時代ということになります。
「70歳の大腸がん患者さんが、半年寿命が延長する可能性のある薬を使うため、みんなで1年に1092万円を負担してもいいのか」
という疑問になります。
ここまでくると「ちょっと高すぎる」と感じる人が増えるのではないでしょうか。
一人を延命するために使っていい金の上限とは?
このシナリオは、まずまずリアルな設定にしてあります。大腸がん治療で使う抗がん剤の中には、分子標的薬という新しいものがあり、これらの中には1ヶ月に70万円を超える薬剤費がかかるものがあります。そして、一年間で大腸がんにかかる人数は14万9500人と推計されています(国立がん研究センターがん情報サービスによる)。
「ある人が1年長く生きるために、使っていいと思える金額はいくらか」
という疑問になりますね。
この金額は、答える人によって違うと思います。
「1000万円でも2000万円でも、人のいのちがかかっているなら使っていい」と答える人がいる反面、「みんなのお金を使うのだから、原則、自己負担で頑張って、どうしても足りない分は300万円までなら払っていい」と思う人まで、様々です。さらには「子供にはいくらまで使ってもいいけれど、80歳過ぎた人には払うのはちょっとなあ……」などと年齢で区切る人もいるかもしれません。
「ある人が1年、元気な状態で生きるために使える額は、5万ドル」
5万ドルというと、現在のレートではだいたい550万円です。550万円を超えた場合は、その治療は止めましょう、という考え方があるのです。他にも2~3万ポンド(約276~414万円)という数字もあります。
そんなひどい話があるのか、いくらでも使えばいいじゃないかとお思いでしょうか。
実際のところ、このルールを適用している国があります。それは、イギリスです。私が今回の想定ケースで用いたアバスチンという抗がん剤は、イギリスでは使うことができません。
理由は、「費用対効果が悪すぎるから」です。ちなみに「費用対効果が悪い」とは、かかるお金の割に効果がイマイチですよ、という意味です。日常でよく使う「コスパ(コスト・パフォーマンス)」と似たイメージですね。専門的にはコスト−イフェクティブネスといいます。
基本的に医療機関を無料で受診できるなど、医療制度が日本と大きく違うため単純な比較はできませんが、イギリスは世界の中でも「費用対効果」を医療の世界で厳しくみている国です。費用対効果の点から、アバスチンという薬は効果(つまりどれだけがん患者さんのいのちを延ばすか)の割に費用が高すぎる、ということで使うことができないのです。
一方、日本では当然のように使っています。私も抗がん剤治療をしますが、アバスチンはほかの抗がん剤と比べても副作用が少ないため、重宝しています。
しかし、そのコストについてはあまり考えていません。高額療養費制度を使うと、患者さんの負担は収入により異なりますが月10万円以下くらいになるので、それが払える方はほぼ全員といっていいほど使っています。そして使っている患者さんはほぼ全員が高額療養費制度を使い、ディスカウントを受けているのです。
医者の多くは、この事実をある程度知りながら、それでも患者さんの治療が一番だと考えて、使用を続けています。それを許容するだけの経済力が日本にはありました。
話は逸れますが、この薬のほかにも、超高額で話題になった抗がん剤はあります。一つはザルトラップという薬で、こちらは先のアバスチンと似たメカニズムで作用するお薬です。これは、月に100万円以上かかるため、販売が始まった当初、アメリカの有力病院であるメモリアル・スローン・ケタリングがんセンターの医師が「高額すぎるため、うちの病院では使わない」と公表したところ、あっという間に薬の値段が半額になりました。冗談のような話ですが、これは実話です。
もう一つの薬に、オプジーボという新しい薬があります。月に300万円以上かかることで大変な話題になりました。こちらも価格はどんどん下がり、現在では発売当初の4割ほどまでになっています。
延命を最優先する医療の終わり
話を戻し、先ほど私は、「日本には高額な薬を使うだけの経済力がありました」と書きました。しかし、そろそろ流れが変わり始めています。すでに薬や治療のコスパ、つまり費用対効果について厚生労働省が検討を重ねています。2012年に始まった検討会議ではこんな調査が計画されたのです。
(中央社会保険医療協議会費用対効果評価専門部会(第46回)議事次第「新たに行う国内の支払い意思額(仮称)に関する調査について」より。
この文中のX円こそが、さきほど550万円と書いた額になります。私は、ぜひこの調査をやっていただきたかったのですが、なんと会議でまとまらずに断念という結果になりました。このX円をいくらにするかは、日本で行われた過去の4つの研究結果と、実際に導入されているイギリスの例を使うことで決まったのです。
今後、どのような薬や治療器具が対象になるのかは不明です。はっきりしているのは、これからは日本でも費用対効果を考えていく時代が来るということ。高価だが、効果がそれほど高くない治療は今後、自費でしか受けられなくなっていくでしょう。
この事実を知っておくことは、どの世代の方でも非常に重要だと私は考えています。少子高齢社会で、医療費はますます膨れ上がり、働き手の減る日本経済はゆっくりと沈んでいくでしょう。十分な医療費を使うことができるのは、ここ数年がピークなのではないかと私は感じるのです。つまり、「いのちが助かるなら、延ばせるのなら、いくらお金を使ってもいい」という時代は、終焉を迎えます。